昭和世代が紡いだ平成プロレス〜格闘夢工場 11 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

    前回、何故長々と90年代のプロレス事情を書いたのかと言うと、それにはもちろん訳がある。

プロレスが日本に根を下ろしてから、永い年月が経ち、隆盛の時期も有れば冬の時代もあった。

そして、プロレスラーが職業という人達は日本中に100人程度。

それが、ずっと続いていた。

前回も述べた通り、UWFの誕生を合図にしたかのように、FMW、WING、みちのくプロレス、等々。

あっという間に多団体時代が到来したのだ。

レスラーを名乗る人達の数は激増した。

私が立ち上げた《レッスル夢ファクトリー》は、そんな中で、たしか30番目に誕生した団体だった。

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《レッスル夢ファクトリー》の誕生が世に知られるようになった時のプロレス誌には、こんな記事が載っていた。
さらに、メジャー団体の選手も辛口のコメントを寄せている。

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前述したように、この二つの写真を見ただけでも判るように、あの多団体時代は、需要から生まれたと言うより、こちらの都合で増えていったと言えるのではないだろうか。

急速に団体の数が増えれば、そこには団体の体裁を備える為の、人員の確保が必要になる。

レスラーはもちろんのこと、フロントスタッフも当然必要になってくる。

そこに、様々な問題も生まれてくる。

リングに上がる選手達の数を揃えることは、実はそれほど難しいことではなかった。

問題は、そのクォリティだった。

スポンサーのいる、恵まれた環境の中に生まれた団体、《レッスル夢ファクトリー》は、その旗揚げ戦を終えた。

私達は、混沌としたプロレス界に船出したのだった。