昭和世代が紡いだ平成プロレス〜夢の欠片 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

   9月の関東地方には、真夏の暑さが腰を据えていた。
8月の終わり近く、私はその残暑の中にいた。

ひとつ気がかりな事があった。

旗揚げ以来、営業活動を続ける中で、支援してくれている人、いろいろな面で強力をしてくれていた人、その人達への報告はどうすればいいのだろう。

団体が潰れた訳ではない、私が経営している訳ではない。
ひとつの組織の一員が辞める度に、いちいち周囲に報告することの方が珍しい。

支援者も応援してくれている人もSPWFの選手があってこそなのだから、その人達の態度に変化が有るはずもない。

本心を言えば、金銭的な支援や大量のチケットを購入してもらう時、その受け渡しは私が担当していたのだ、そういう相手に挨拶に行くのが辛かった。

そんな頃、Mさんから連絡が来た。

私の仕事についての話だった。

『どうだい、龍チャン、疲れは取れたかい。』

新しい事業を考えているので、それを私に任せたいという、有難い話だった。

電話を終わろうとした時に、Mさんから質問があった。

『ところでオマエは足利の人に挨拶したのか?』

私は、連絡をとっていないと答えた。

Mさんは、『それはまずいよ、何であれ1年間世話になったんだから、何処でまた世話になるとも限らないんだから、挨拶はしなくちゃな。』

私は、Mさんとの電話を終わってからすぐにその人へ電話を入れた。

栃木県足利市に、拠点を置き当時は、群馬、埼玉を含めた北関東地域に数十店舗を経営している実業家だった。

私は、個人的な事情でSPWFを辞めたことを伝えた。

多忙な人のこと、非礼とは思ったものの、電話の方が先方にとっても都合がいいはずと考えた私は、簡単に済ますつもりだった。

しかし、そういう訳にはいかなかった。

残念がる相手に恐縮はしたものの、もう決まったことだったので、これ以上私から話もなかった。

現在この人とは、1年間くらい交信が途絶えている。

最後に会ったのは3年以上も前になる。

だから、氏名は公表するべきではないと思い、K氏としておく。

K氏は、何を思ったのか私と会おうと言う。
丁重に辞退したものの、K氏は諦めずに時間を作ってくれの一点張りだった。

お世話になっている人の誘いを断わることも出来ない。

私は、K氏に会うことにした。

そんな頃、茂木正淑から連絡があった。

彼は私が辞めたあとのSPWFの状況を、あれこれと話してくれたが、終わったことだという思いが強く、集中して話を聞く事は出来なかった。

ただ、その中で耳に残ったのは、代表とその他の選手、会員との関係がかなり険悪になっているという事だった。

いち早く、自分が辞めておいて言えた義理ではないが、SPWFの出現で諦めていた自分の夢が叶った会員は多いはずだ。

しかも、旗揚げして一年がやっと過ぎたばかりである。

代表達を批判している連中の思いと、私のそれとは違う、絶対、違う。

当時はそう思っていた。

では、今はどうなのか?

辞めた事は、後悔していない。

いないが、自分と彼らとの差異はあまりないと思っている。

所詮、周囲から見れば、五十歩百歩なのだ。


会員達の不義理を責める資格は私にはない。

資格があるとすれば、それはSPWFを代表だけだろう。

『局長!聞いてます?もうみんな限界なんですよ。辞める奴も増えますよ。髙田さんが団体作って下さいよ。みんな喜びますよ。髙田さんがその気になってくれたら、皆んなのことは俺がまとめますよ。』

『バカなこと言うなよ、団体作るなんて俺に出来る訳ないだろ。』

私は、電話を切った。

Kさんとの待ち合わせ場所へ向かう車中で、どう言う説明をしたらいいのかと、そんな事ばかりを考えながら、私はクルマを走らせていた。

その1時間後に、自分の人生の中でも特筆すべき出来事が待っているなどとは、想像すらしていなかった。