昭和世代が紡いだ平成プロレス〜序の十八 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

    SPWFの支援者であり代表個人を永年にわたって後援して来たMさんの処へ、しばらく連絡の取れなかった代表が姿を現して話し合いが持たれた。
私は、そこで代表からMさんへ伝えられた今後のSPWFの方針を聞いた。

それは、1部リーグと2部3部リーグを切り離す事。
そして、代表を辞任すること。
後任は、私に頼のむということ。

Mさんは、2部3部リーグの切り離しの件以外は一蹴したという。

〜自分が設立し、未だ草創期の状況で、解散ならまだしも、代表だけの後退は無責任だ、髙田だって後任を引き受けないだろう〜

代表からは、〜最初のコンセプトが間違っているとは思わないが、この体制を続けながら新日本プロレスに参戦するのは、相手に失礼になってしまう。これからはプロレスに専念して、会員の事や、社会人プロレス連盟のことは髙田に任せたい〜との説明が有ったという。

どれもこれも、納得のいくものではなかった。

社会人プロレス連盟の趣旨に賛同していない私が、運営の手伝いをする気になったのは、既存のプロレス団体に対して、その特権意識や古い慣習を破り、プロレス界の門扉を拡げるというフロンティア精神に共鳴したためだ。

それを今頃になって、新日本プロレスに非礼だという代表の考えには、このあとにどの様な説明を受けたとしても、承服出来ることではない。

私が代表になる話に至っては、論外だった。

働きながら、インディとは言えプロレスラーとして認知されている茂木選手の姿を見て、少しづつ社会人プロレスを理解して来た私だった。

初めて代表から新しいシステムの団体構想を聞いた時より、考え方も変わっていたし、何より私は今、その団体の一員なのだ。

こんな身内を斬り捨てる様な考えが、当時の私に受け入れられるはずもなかった。

夏が終わろうとしていた。


序の十六で述べた通り、私は8月末日をもって、SPWFの事務局長を辞任した。

序の十六の最後に、さて何をしようかと書いたが、SPWF旗揚げ時に働いていた会社は前年の暮に退職していた。

選手は興行日程にスケジュールの調整が出来れば試合することは可能だが、フロントはその様な訳にはいかない。

平日の昼間も、活動しなければならない。

二足の草鞋を履くことは出来なかった。

無職になった私は、就職活動をしなければならなかった。

SPWFを去る私に、Mさんは言った。

『まぁ、少しノンビリして疲れを取れ、今後のことは任せろ。俺の仕事を手伝うか、やりたい商売でもあるなら、会社を作っても言いじゃないか。』

Mさんとの付き合いは、実際にはまだ半年ほどなのだ。

Mさんと初めて会ったのは、1993年、年末の川崎市体育館。

その時は、会釈を交わしただけだった。

あれから、24年が過ぎようとしている。

SPWFという団体の為に、誰が一番被害を被ったのかと聞かれれば、ためらう事なく、それはMさんだと私は言う。

投げた金銭の単位は、四桁に届き、現在までSPWFからは一円の返金もない。

Mさんは、その事を喧伝したことはない。

私がプロレス界に身を置く中で知り合った心優しき頑固者である。