昭和世代が紡いだ平成プロレス〜序の十七 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

    現在のテーマでこのブログの連載を始めてから、これを読んでくれている方々には私が固有名詞を書かない事に、読みづらさや違和感を感じているのではないだろうか。

その事について、私の考えを話しておこう。

先づ、現在の私はプロレス界の人間との交流がない。
SPWF、夢ファクトリー、WJ時代を通じて知り合ったすべての人達で、レスラー、フロント、マスコミ、どのジャンルの人とも殆んど交流はない。

わずかに、電話やメールでたまに連絡をとっている人は十指に余るだろう。

そんな状況の私が、過去の関係を頼りに勝手に実名を挙げて語るのは良くないと思ったからである。

プロレスに詳しい人なら、誰彼は簡単に判るかもしれないが、あくまでもそれぞれの方の想像に任せることにしたい。

今まで、実名や実名のハッキリ判るリングネームを書いた部分があるが、それは交流があるからということだと判断してもらいたい。

SPWFの経済的支援者は、複数いたが、その中のひとりの方からは、こう言われた。

その方とは今も交流があるので、もう20年を超えた仲である。

私と二歳違いのこの方は、いわば同期だった。

なのに、やたら大人びていて頼り甲斐のある人だった。

SPWFの代表がまだ大学に入る以前からの付き合いが有ったと聞いている。

仮に、Mさんとしよう。

交流がある人なのに実名にしないのは、プロレスに関わって嫌な思いばかりをした人だからだ。

金銭的な損失は、漢気のある人なので泣き事など言わない。
ただ、真心を裏切られた思いの辛さは、金銭的損失に倍してMさんを失望させたと思うからだ。

Mさんは、私が最初に辞める意志を伝えた相手でも有った。

Mさんの自宅にSPWFの主だった人間が集まり、私の辞職と今後の体制をどうするかなどの話し合いが持たれた。

Mさんは、『どんな企業にも、そこにはなくてはならない存在がいる。周りはそういう人間の事を、彼がいなくなればこの会社は潰れてしまう。よくある話じゃないか。でも実際にはどんなに優秀な幹部が辞めたとしても、潰れる会社なんてない。そんなことはないんだよ。でもSPWFの場合はなぁ。』

私には、有難い言葉だった。

しかし、私の決意は変わらなかった。

この頃、SPWFの代表は、新日本プロレスにシリーズ参戦していて、旗揚げの頃のように毎日一緒という訳にはいかなくなっていた。

シリーズが終了するとSPWFの代表として活動するというパターンが出来ていたのだが、シリーズが終わっても彼と連絡が取れなくなったのだ。

支援者として、現金の提供だけでなく、チケット販売や自宅も開放してくれていたMさんは、複数の会社を経営していたが、経営者の立場からSPWFの将来を危惧していた。

私の知らないところでも、Mさんと代表の話し合いは
何度も有ったという。

Mさんは、非常にポジティブな人だった。

暗いムードになった時には決まって、『ヤルっきゃねェ!』と言って、その場を締めてくれた。

選手達からも、意見が出始めていた。

業界からは、SPWFは旗揚げから僅か1年にして、
ここまで発展して来たという評価をされている時に、内部的には、問題を抱えていたのである。

ひとりの人間の人生にも、同じことは言える。

周囲から見れば、順風満帆の前進をしている人でも、その心に闇を抱えている事もあれば、順風満帆に見える状況自体が、外部の見当違いの場合もあるのだ。

大事なことは、判定評価することより、関わるのであれば、理解と協力だと思う。

私には代表の心が判らなかったし、理解しようという気持ちも、協力していこうという気持ちも、消えていた。

人の姿や行動は、暗闇でも見る事は出来るが、その心は見えないのだ。

代表からの連絡が途絶えて1週間以上が過ぎたある日、Mさんに代表から連絡がきた。

今後のことについてを熟慮し、その結果をMさんに伝えるためだった。

彼が決めたという、今後の方針を聞いた私の心は、辞めたいから、辞めるに決まった。



〜こちらの更新はかなり滞っていますが、9月後半には、更新を再開しますので、ぜひ読んでみて下さい。〜小説  佳作座の消えた街