昭和世代が紡いだ平成プロレス〜序の十六 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

   1993年の8月、SPWF社会人プロレス連盟は、そのコンセプトのためか、プロレスファンにも業界にも暖かく迎えられたとは言えない状況下で産声を上げた。

旗揚げ当初、世の中に認知されている所属レスラーは〜もっともSPWFの場合、所属選手ではなく会員なのだが〜わずかに2名。

今迄に無いシステムは、なかなか認めては貰えなかった。

それでも、この頃次々と誕生する、インディ団体との交流は進み、活動の様子がメディアに取り上げられることも増えていた。

このまま、当初のコンセプト通りに進んでいくのかと思っていたが、思惑通りにはいかないものである。

1993年の掉尾を、川崎市で飾った後、年末の合宿も終えて年が改まった94年、SPWFは既成のプロレス団体の色に染まり始めたのである。

1部リーグの選手も増えた。

代表は同じ新日本出身のレスラーと共に新日本プロレスに参戦が決定し、茂木の移籍も決まり、彼もまた新日本参戦を取りつけた。
G・馬場がその将来を期待していた、大相撲出身のレスラーも入団した。

あまり年月が過ぎているために、いつものことながら時系列が不正確なのだが、SPWFは94年がスタートすると後発の団体の中での活動は目覚ましいと言ってもいいのではないか。

ここから先は、ここまで私のブログを読んで頂いている方々に肩透かしを喰らわすことになってしまうのかもしれないが、最初に述べたように、暴露本のようにはしないと断っている事を思い返して頂きたい。

インディ団体の中でも存在感を示し、メジャー団体とも交流を結んだSPWFは、この94年に大きく発展する可能性を見せた。

実際に、SPWFは代表以下の1部リーグの選手達が、新日本プロレスにシリーズ参戦するようにもなった。

プロレスメディアの誌面に登場することも多く。

SPWFという活字があちこちで見られるようになった。

しかし現実には、SPWF社会人プロレス連盟はこの年の後半には、団体としての体裁を保てない状況になってしまったのである。

ひとつの組織が発展するのも、衰退するのも、当然そこには原因があるし、責任を問われる人間もいるのだ。

そこのところを語らなくては、SPWFから多くの人間が出て行く結果になった理由も解らない。

では、小さな団体の、それも四半世紀近い過去の内紛の理由を明らかにする事が、どれ程の意味を持つというのだろう。

私は、無いと結論した。

それよりも、この期間に私が出会った人達との想い出の方が、読んでくれている方達が気分良くなってもらえると確信している。

ただ、自分自身のことは話せるし、自己批判出来る。

当時のSPWF社会人プロレス連盟の中で、事務局長という立場にどれだけの権限が有ったかは判らないが、フロントとして、代表との間に上級役職者の存在は無かった。

その私は、旗揚げ1周年を迎える8月の終わりを待ってSPWFを離れることになった。

もちろん、代表、支援者の方、レスラー達からも思い留まるように言われた。

最初に、旗揚げ迄の《お手伝い》と思って引き受けた事務局長を、延長していたのだと言っても通用しないだろう。
1年間ひとつの立場を担えば、それが設立時からとなれば、責任は大きい。

私に影響力が有ったとなど思ってはいないが、責任はある。

SPWFの大事な時期に職を辞したのは、私の罪だ。

どんな人にも有ると思うが、もの心ついた頃には染みついていた親からの誡め、家訓のようなものが必ず有ると思う。

それは意外に強く、その後の人格形成に影響を与える事にもなる。

私はそう思っている。

そして、SPWFに留まるにはこの親からの誡めを破らなければならないと思った。

それは、自分自身の中の大切なものを踏み躙ることだとも思った。

親不孝の極みといえる私がこんなことを言っても説得力はないのだが。

私は、SPWFを辞める決心をした。

皆に迷惑をかけることになるとは思ったが、別に後ろめたさは無かった。

これで家に帰れる。

妻や子供達との時間が作れる。

身体が軽いのが判った。

多忙の日々の連続だった私の、短いプロレス生活は終わった。


さて、何をしようか?