その選択をとらず、一般社会でも職業を持ちながらプロレスを続けた彼の歩みと、あの時代から今日までのプロレス業界の状況を見てみると、もったいないというより、彼は賢明な選択をしたと言える。
好きなプロレスに専念し、思い切り自分の可能性を追求することが出来たらと、どれだけ彼が思ったのだろうか。
二足の草鞋を脱ぎ捨てたかったのは、誰よりも彼だったのではないか。
心の奥に仕舞い込んだ悲哀など微塵も見せない彼の周囲は、笑い声が絶えなかった。
きっと、今もそうなのだろう。
安っぽい労いや称讃は彼に失礼なのかもしれない。
ただ、拍手を贈ろう。
話を当時に戻す事にしょう。
SPWFは、順調な(?)前進を続けていた。
葛飾区内の病院が所有する体育館を継続的に借り受けて、2部、3部の会員達の全体練習が、主に土曜日曜に行なわれていた。
代表を中心にした1部リーグのメンバーは盛んにインディ各団体と交流を繰り返し、SPWFマットと他団体マットに処を代えながら様々なアングルが出来上がっていた。
旗揚げ時の発表通り、SPWFは既存のプロレス団体とは一線を画して、プロレスを愛する人達が、余暇を利用して体力作りや、趣味を楽しむようにプロレスと関わることの出来る、新感覚の団体だという存在であり続けていれば問題もなかったのだろう。
2部、3部リーグの会員達は、その事を理解していた。
ブレたのは、私を含む運営側だった。
そして、2部、3部リーグの会員達に一番接点の多かったのが、私だ。
私は、書き始めで言ったように《素人にプロレスを》
という考えには、個人的には賛同出来なかった。
その為に、運営側のブレを、ブレと感じられなかったのかも知れない。
代表自らが、記者会見の場で言っている。
《私自身も社会人です。仕事を持っています。》
それは、事実だった。
彼と初めて言葉を交わした時、外車販売の会社を経営していたしショールームも在った。
其処には、高級外車が列べられていた。
経営状態がどうなのかは判らなかったが、彼が一般社会人の自覚を持って、プロレスの世界にあぐらをかかず、選手生活が終了した後の人生も見据え、そればかりでなく、他のレスラー達の引退後の人生設計の一助になる考えを持っていることまでを知った。
彼が話してくれた内容が、SPWFの理念に賛同出来ない私の心を変えたのだ。
旗揚げ時の一時期、彼に協力しょう。
私は、心を決めた。
しかし彼は、自分が望んで手に入れた二足の草鞋を上手く履きこなせなかったようである。
しばらくの間、休止していたプロレスラーとしての活動を再開させた彼の心に変化が生じたとしても、誰も批判することは出来なかったと思う。
ある日、彼に一本の電話が入った。
電話の主は、A・猪木に代わり新日本プロレスをシフトする長州力だった。
シツコイとは思いますが、こちらの方も宜しくお願いします。
《佳作座の消えた街1〜17》