昭和世代が紡いだ平成プロレス〜序の十三 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

   その長州力からの一本の電話が、他団体とは一線を画した道を歩んで行こうとしていたSPWFの前進に変化を起こした。

この時点では古巣の団体とはいえ、代表達は、新日本プロレスの出身、そこのトップから連絡くれば心が動いたとしても、致し方ない。

インディ団体とメジャーの新日本プロレスとでは、何もかもが違うのだ。

私も嬉しかった。

この時、2部、3部リーグの会員達のことは、頭にはなかった。

元々、社会人プロレスの定義には批判的だった私は、メジャー団体との交渉にやり甲斐を感じていた。

若い頃から自分より大きな存在を相手にする時に、私は力が出る。

私にとって、新日本プロレスとの交渉を担当することは、相手にとって不足はなしだった。

と言ってはみたものの、新日本プロレスは私にとって敷居の高いところだったのは確かだった。

代表達の新日本プロレス参戦は極秘裏に進んだ。

諸々の条件にについての交渉の最初の日、場所は新日本プロレスの事務所。

この頃、新日本プロレスの事務所は六本木のテレビ朝日の社屋の中にあった。

広いフロアには仕切りもあまり無く、各部署が散らばっていて、たくさんの社員が忙しく働いていた。

社長室に通された私を、当時の専務と取締役の二人が迎えてくれた。

SPWFにオファーしてくれた事への感謝を込めて深々と頭を下げた私に、いきなりキツイ言葉が飛んで来た。
『社会人プロレスだかなんだか知らんけど、ややこしいもの作って、迷惑なんだよ。働きながらプロレスやるって、どう云うことだよ。』

すでに、SPWFの参戦はマスコミにも告知を済ませていた。

記者会見も新日本の事務所の中で行なっている。

この日は、シリーズに入る前に条件面の確認と契約書にサインをする為に私は来たのだ。

高飛車な取締役の言葉に、私の中で。スイッチが入ってしまった。