昭和世代が紡いだ平成プロレス〜序の十一 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

前回はだんだん肩に力が入ってしまった。

書くはずの九州の青年の話が途中から何処かへ行ってしまった。

彼の素晴らしさを《真剣勝負》、《八百長》という背景の中から表現しようという思いだったのだが、すべった。

と言うことだ。

このタイトルのプログを書き始める時に、暴露的なものは書かないと述べた。

誤解をされては困るので、少し説明をしようと思う。


攻撃技の技術を高め、相手の攻撃をかわしダメージを最小限にする技術の向上に努めた選手同士の試合に、私達は手に汗を握って観戦し、興奮と感動を得る。

それは、プロレス以外の格闘技に共通することだ。

人は、これを《真剣勝負》と呼ぶのだと思う。

では、プロレスの会場で、選手達がそれぞれの技術の向上に専念し、相手を倒すことだけを考えて試合をしたとする。

観客達は、その試合から感動と興奮を得ることが出来るだろうか。

これは、断言する。

出来ない。

それは、プロレスファンにとって、詰まらない試合になってしまう。

攻撃されている選手が、絶対に敗けたくないと思って、その事に徹した場合、観客席が総立ちになる必殺技は成功しない。

四の字固めは、完成しない。

トペ・コンヒーロは、成功しない。

大人と幼児ほどの力の差でもなければ、あのボディスラムなど決まらない。

ブレイン・バスターは、もう説明する必要もないだろう。

九州から来た青年がフランケンシュタイナーを決める直前に、一瞬の間をとったことは、必ず勝つということを考えれば、馬鹿野郎!ものである。

しかし、彼が一瞬の間をとった事で必殺技はインパクトを増し、観るものの興奮度を上げたのである。

彼は、相手を倒すことを考えつつ、観客の気持ちを大切にしたのだ。

プロレスは、観客と戦う唯一のものである。

誰もが出来ることではないが、出来なくては名レスラーとは呼ばれない。

そんな高度なものを要求され、それに応えるプロレスラー達、そんなことも判らずに軽々しく《八百長》などという言葉を彼らに打つける人間もいる。
私がプロレス界にいた頃と今とではかなり違っている様だ。

勝てばいいものと、勝つことだけではだめというもの何方が良いのかは、観る人達の判断である。

何方も好きだ、という人もいるだろう。

観客は、プロレスファンというだけで一括りする事は出来ない。

同じプロレスファンでも、ルチャ系の軽業師のような技を繰り出すスタイルもあれば、大型のレスラーが力技をアピールするスタイルも有るのだ。

そして団体側は、いろいろなスタイルのプロレスに対応する努力をしている。

観客の嗜好を掴んで、それに応えることに成功した団体や選手は、ファンの支持を勝ち獲ることが出来るのだ。

こういう観点で、九州からやって来た青年に点数を付けると、彼には高得点が付く。

だから、彼はプロレスラーとして認知されてデビューを果たしたのだ。

学生プロレスでも、そのOBでもなく、プロレスラーとしてのデビューを飾る。

リングネームは、《九州山 友彦》。

名付け親は私だった。

恵まれた体躯と高い運動能力に加えて、柔道二段というキャリアを活かして世紀末のプロレス界に登場することになった。

あれから20年が過ぎ、彼も不惑の歳を越えた。

その彼は鍛錬を怠らず、今もプロレスラーとしてリングに上がり続けている。

心配もあるが、嬉しい話ではある。