昭和世代が紡いだ平成プロレス〜序の十 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

    前回、九州からやって来た青年のことを書いたが、今回、もう少し彼のことを書いてみようと思う。

何故、彼にこだわるのか、その理由は簡単だ。

単に彼のファンだからだ。

現在、私がプロレスの試合を観戦することはない。

これからも無いと断言は出来ないが、年齢や生活環境から言っても無いと思う。

プロレスを観なくなってからずいぶん時が経った。

業界とはまったく無縁の、只のファンだった頃も、会場に行くことはあまりなかった。

もっぱらテレビ観戦と、活字プロレス黄金期のプロレス誌を読み耽っていた。

私は活字プロレスファンだったのかも知れない。

その私が、プロレス業界にかかわる様になった。

客観的に見れば無理はあったと思う。

私に、選手の経験があった訳ではない。

スタッフとしての経験もなかった。

但し、役に立つ過去は持っていた。

そのことはさて置き、九州から来た青年の話だが、彼の何が私の心を捉えたのだろうか。

それは、《間》である。

《タメ》とも言える。

試合中の彼は、どんなに白熱した攻防を展開している時でも、劣勢を挽回して一気呵成に自分の決め技に入る時も、《間》を作る。

私は、それが一流と二流以下の人間との決定的な違いだと思う。

ご存知の通り、プロレスは、勝つ事がすべてではない。

総合格闘技やボクシングは、絶対に勝たなければならない。

良い試合をして敗ければ、健闘を称えられる事はある。

だからと言って、敗けっぷりの良さでランキングが上がることなどない。

プロレスはどうか、敗けっぷりの良さでファンや業界内から評価され、立場を作り上げたレスラーは、数多い。

今の時代、プロレスを《真剣勝負》と思って観戦する人がどれくらい居るのだろうか。

ここから先は、あくまでも私のプロレス観であり、自論だということを了解して読んでもらいたいが、プロレスが好きじゃないという人達の多くが、《八百長》という言葉の呪縛に囚われている。

《真剣勝負》とは本来、命の遣り取りである。
そんなリスクの大き過ぎるものを継続的に行い、ビジネスにする事などあり得ない。

人命尊重を考える時、予測出来る限り、不幸な事故による負傷者を出さない様に、詳細なルールで選手達を守ろうとするのが、当然になる。
死亡事故などということは論外なのだ。

それでも不幸な事故は起きるのだから。

現在の総合格闘技の業界は、その事を遵守していると私は思う。

しかし、《真剣勝負》とは思わない。

ルールが存在する限り、《真剣勝負》ではないと思う。

では、プロレスはどうかと言えば、もちろん《真剣勝負》ではない。

だからと言って《八百長》などと卑下される事もない。

本来《八百長》とは、何か勝敗を競う事に賭博性を持たせ、でっち上げられた勝敗の結果で、一部の人間が不当に利益を得ることを画策することなのだ。

21世紀の現代、捏造された勝敗で一部の人間が利益を得ることなどプロレスの試合にあるのか。


ということなのだ。

また次回に続けることにする。