『平和』〜ごまめの歯軋り的考察 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。


人間にとって、いや生きとし生けるものにとって、平和とはいったいどのような状態を言うのだろうか。
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夏のような五月の中で、ふとそのようなことを考えてみた。

軍事政権下で個人の自由に厳しい制約のある国や、今この時も、戦争の恐怖に晒されている人々もいる。

民主党から自民党へ政権がもどり、景気は回復しているとのことだが、それを実感している人がどれほどいるのだろうか。

それよりも、戦後70年を迎えた日本は今、『戦争』という言葉を現実味を帯びた言葉として聞くようになっていることが、怖い。

自衛隊機のスクランブル発進の回数は、数年前と比べ格段に多いと聞く。

他国の領海侵犯、領空侵犯は増加するばかりだという。

国内にいるぶんには、リアリティーを感じないテロの恐怖も、一旦、海を越えれば身近な恐怖となる。

平和を望まない人間などいるはずもない。

その同じ人間が核弾道ミサイルを発射させるスイッチを押す権利も持つ。



『平和』の名の下に二手に分かれ人間は戦い、
『平和』の名の下に殺戮を繰り返す。

祖国日本の未来のために死んでいった私達の祖父や父や兄は、他国から祀られることすら許されない。

米国の若き兵士も、英国の若き兵士も、中国の若き兵士も、朝鮮の若き兵士も、日本の若き兵士も戦争で流した血と涙の重さは同じはず。

命の尊さも同じではないのだろうか。

私達の母は、祖母は、妻や姉は、日本に平和が訪れることを祈り願いながら、踏み躙られ犯され殺されていったのだ。

中国や韓国の女性達だけが、犠牲になった訳ではないだろう。

戦後70年、日本は韓国、中国の復興に莫大な国費を投じて来た。
日本の財政が危機的な状況になるかという現在でさえそれは続けられている。

日本人は、いつ迄謝罪すれば許されのだろうか。

戦争の犠牲者は、けして中国や韓国、アジア諸国の人達だけではない。

日本人も塗炭の苦しみの中で多くの人々が犠牲になっている。

ほんとうに世界の国々が真剣に、真摯に平和を希求するのならば、過去の恩讐の上に構築する平和ではなく、如何なるイデオロギーをも超越して、生命の尊厳を例外のない第一義として集い、協力し合うことではないだろうか。