〜昼下りの会話〜 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

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私が少しばかりプロレス業界に関わったことがあるのを知っている人って、いるのかなあ。
ずいぶん、古い話になりますから。

今日は、本当に久しぶりにプロレスネタの話を。

『阿蘇山』というリングネームのプロレスラーを皆さんは御存知でしょうか。

彼に初めて会ったのは、1993年の冬。

まだ、20世紀でした。

彼との付き合いは、世紀を跨いだわけですね。

たしか、二十代後半だったと思いますが、学生プロレスのOBというふれ込みでした。

どういう理由で、どんな場所で・・・いろいろ背景は有りますが、それを話すと長~く成りますので、割愛させて頂きますが、私は一目で彼を気に入りました。

そして、彼のデビューが決まった時には、リングネームを付けさせて貰いました。

名付けて『九州山友彦』。
このリングネーム、当時でさえレトロな匂いの漂うものでした。

由来は、力道山率いる『日本プロレス』の初期にレフェリーで活躍した大相撲出身の『九州山』ですが、彼が九州出身だったので、軽い気持ちで付けたリングネームです。
素顔の彼は、このリングネームが似合う、どこか昭和な雰囲気の男でした。

一目で、という表現を使うほど気に入った理由は、まず、身体がデカイことでした。
そして、運動神経がいい、さらに跳べる。

当時は、小柄なレスラーがジュニア戦士と持て囃されて、まるでサーカスのような動きでファンの喝采を浴びている頃でした。

ルチャリブレと呼ばれるメキシコスタイルのプロレスが人気を呼び、海の向こうからメキシカンの選手が大挙して来日していました。

彼らの試合スタイルが正にそれでした。


ルチャリブレは、日本でさらに進化を遂げ、日本特有の空中戦がマット界を席捲していました。

ジュニア・ヘビーが活況を呈する中で、ヘビー級のレスラー達にもスピードが要求されて来ました。

彼は、メジャー団体の選手を含めても、この時代の要求に応えられた数少ないレスラーの一人だったと、今でも思っています 。

他にも理由は有ります。

彼の明るい性格です。

プロレスの興行は、勝敗だけを求めるものではありません。
第一試合からメインイベント迄、参加するレスラー達に要求されるのは、如何にお客を喜ばせられるのか、なのです。

試合は、別々でも、敵味方に分かれていても、そこには、チームワークが必要とされます。

明るいムードメーカーは、団体には不可欠なのです。

彼は、底抜けが付くほど明るい性格の男でした。

その後、私が団体を旗揚げした折にも彼は九州から駆け付けてくれました。
私は、彼に新しいキャラクターを用意しました。

戦国武将の甲冑をイメージしたマスクとコスチューム。
リングネームは、『婆娑羅』
入場曲が流れる中をリングインする彼は、格好良かったですね。

その後、紆余曲折あって私がプロレス業界から去った後も、電話での交信は続いています。


彼が、現在の『阿蘇山』というマスクマンで活躍する姿を、残念なことに私は見たことがありません。

そんな彼と今日の昼過ぎに、久しぶりに電話で話しました。

素顔の彼は、一家を支える立派な社会人です。

私のような、万年不良少年みたいな者が、偉そうに接しては失礼なのですが、どうしても昔の癖で、会話の中に『バカ野郎、コノ野郎』が出てしまいます。

今日もそうでした。
彼は言いました。
『いやあ、嬉しいなぁ~。今、僕のことバカ野郎、コノ野郎なんて言う人いませんよ。歳もとりましたし、試合に行っても最年長だし、いやあ嬉しいなぁ~。』

そう言って、電話の向こうで喜んでいる様子の彼に、私は正直、失礼だったかな、次から少しばかり礼儀に気をつけようと思いました。

それでも、次に電話をかければ、私はやっぱり『おォ阿蘇山かコノ野郎!』と言ってしまうのでしょう。
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『阿蘇山』。
私が、私の団体に所属していたレスラーで、プロレスラーと認めている数少ない男の一人です。

それにしても、このマスク何なんでしょうね。
頭のテッペンから煙りが出るらしいですよ。
関心のある方は、彼が出場する興行の会場に是非行かれて下さい。

おい!このくらいでいいか『阿蘇山』コノ野郎!