手紙〜義母へ 其の六 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

    季節は夏を迎えていた。
三月の最後の日曜日に、教室の生徒達の為に小さなコンサート開き、翌朝、業者にピアノを引き取らせると、まるで一泊二日の旅行にでも出掛ける様に菜穂子は田村から去って行った。
それから四カ月~七月。
田村は、先月頃から中元の品定めに頭を痛めていた。

今、無職を公言して憚らない彼の交際先などたかが知れている。

来る数も激減し、出す先もまた同じだった。

だから、ここ数年、悩むことなく数軒の家に進物を届ければよかった。
今年も、同じ様に数軒の送り先に中元の進物を贈る手筈は済んだが、どうしても一軒贈るべきか否かを決め予ねている家があった。

それは、菜穂子の実家だった。

離婚した妻の実家に中元を贈ることが、先方にどのような思いをさせるのだろう。

不愉快なのだろうか。

突然の離婚話の理由を菜穂子は両親にきちんと話したのだろうか。

彼自身は離婚の直接の原因をまだ受け止められていない。

熱い夜だった。
田村は、なかなか寝付けずにいた。

三十年になろうかと云う年月、義理とはいえ親子の間柄だったのだ、習慣化されていた事を突然打ち切る方が不自然だと云う結論にたどり着いた。
考えてみると、離婚の事については何ひとつ義父母に自分の思いを伝えていない。

田村は、手紙を書くことにした。
中元の品物の中に添えて送ろうと決めた。

ところが、いざ便箋を出してペンをとると言葉が浮かばない。
一時間経ち、二時間が過ぎても、机の上の便箋は、白いままだった。

煙草の箱を手繰り寄せて一本を取り出し火を点ける。

深く吸い込んだ煙をゆっくり吐き出す。

思えば、田村が長い禁煙生活を破り、再び喫煙するようになって、三年が経つ。

再び煙草を吸い始めた田村に、菜穂子は家の中での喫煙を許さなかった。
そのせいで、彼は真冬の夜でも玄関の外に出て吸うことしか方法がなかった。

今は、家の中の至る所で煙草を吸っても、誰に咎められることもない。

田村が、寂しさと交換で手に入れた自由だった。

菜穂子と暮らした日々の出来事がゆっくりと田村の瞼の裏側に映し出される。
懸命に、必死に菜穂子と歩んできた歳月が昨日のことのように浮かんでは消え、また浮かんでくる。
そのどれもが懐かしく、楽しい思い出だ。

田村は思った。
菜穂子はどんなのことを思い出すのだろうか。
彼女は苦しみに耐えたことや、夫婦生活に失望したことを思い出すのだろう。

だから、菜穂子は出て行ったのだ。

夜も深まった頃、田村が過ぎ去った日々に思いをはせていた時だった。
次々と浮かび上がってくる思い出の中に、一際鮮明に浮かび上がる情景があった。

春が始まろうとしていた。
光樹を連れて初めて菜穂子の家を訪れた日、広い敷地に建つ工場の奥にある住まいの玄関に立ちドアノブに手をかけ、一瞬躊躇した田村の 背中で菜穂子は『大丈夫よ。』と優しく声をかけてくれた。

その言葉に押されるように田村はドアを開け中に入った。
『今日は、お母さん。』菜穂子の声に応えるように広い廊下の奥からスリッパの音が近づいて来る。

初めて見る義母の顔だった。

田村とは、視線を合わせず満面の笑顔で『光樹ちゃん、いらっしゃい』と、よく通る声で云うと光樹を抱き寄せた。
一男二女の子を設け、中でも一番の期待を寄せた長女を、あろうことか、二度も離婚経験の有る子連れの三十男に奪われ、言いたい事は山ほど有ったはずだ。
しかし、義母は何も言わなかった。

光樹は、何の躊躇いも見せず義母に抱かれにこにこしている。
そして、週末に菜穂子の実家を家族で田村が訪れる事は、なかば習慣に成った。


時の流れの中で紆余曲折、田村にも義父母にもいろいろな事が有ったが義父母と田村の関係は良好だった。
いつの頃からか、田村は義父母に頼られる
存在に成っていた。
彼は、そのことが嬉しかった。

田村は、実の母よりも、菜穂子の母を慕っていた。
言いたい事も遠慮会釈なく言い、菜穂子の悪口も平気で話していた。

義母は不愉快だったはずである。

しかし、何も言わず笑顔で聞いていた。

田村は、咥えていた煙草を灰皿でもみ消し、ペンを掴み直すと便箋に書き始めた。

玄関で光樹を抱き上げてくれてから今日迄のことに対する感謝と、離婚と云う結末を迎えてしまったことへの謝罪をすることにしたのだ。

溢れる思いは、次々と文字に成っていった。
窓の外が明るくなり始めた頃、田村は義母への手紙を書き終えた。

中元の品物を贈る手続きを済ませ、空調の効いたデパートから外へ出た田村を、凄まじい暑さが襲い掛かって来たが、熱射の中でも、田村の心は爽やかだった。
その手には、明け方迄かかって書き上げた手紙が握られていた。

結局、田村は手紙を同封しなかった。

思いは、心に仕舞っておこう。

義母は田村の思いなど判っている。

義母はそういう人なのだ。

それに、便箋三十枚にもなる手紙など、この暑さを増幅させるだけだ。
自嘲的な笑みを浮かべて、見上げる空に灼熱の太陽は、忌々しいほどに照っていた。田村は首筋の汗を拭うと、炎天下の舗道を歩き始めた。

~びんちゃん、どうもありがとうね~

義母の声が聴こえた。



                                          了。