終戦記念日 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

今日は終戦記念日。
毎年この日か、その前後に終戦記念日にちなむ文章を書いて来た。
必ず毎年とは言えないが、ほとんどそうして来たと思う。

私の戦争に対する知識や戦争観は、大半が父親からのものである。

かと言って、独善的な考えに陥っていることはない。

父親自体が大正生まれの人で、古い考えに凝り固まっている人間ではなかった。

大正デモクラシーと云う言葉さえ生まれた時代。
街には『モボ』『モガ』と呼ばれた男女が欧米の最新流行のファッションを身に纏い賑やかに繁華街を行き来し平和を謳歌していた。
文化や芸術が大いに開花した時代だったようだ。
   戦争にのめり込んでいくまでの日本はけして、今私達がテレビ番組などで眼にする貧しさと悲壮感に溢れた映像のそれとはだいぶ違っていたようだ。
日本がモノトーンの世界になり、重たい道徳観の中で軍事国家へと変貌して行ったのは、昭和も十年を過ぎた辺りからのようだ。
その頃、私の父は、民間の飛行学校を卒業し、当時の若者達の憧れだった士官学校へと進む。
やがて日本が中国大陸で戦争に突入すると、陸、海両軍に志願し、先に合格通知の来た陸軍へ。
陸軍少尉の立場で中国大陸の空を飛び回っていたそうである。
任期満了した父は軍隊の水に馴染めずに除隊して民間航空会社へ入社。
『大日本航空』。
現在のJALである。
日本の政策から満州には『満州航空』シンガポールには東南アジアをネットワークする『南方航空』が出来。
父は『南方航空』へ。
そして、太平洋戦争に突入すると陸軍が招集した秘密部隊『風9308部隊』の一員となり以降、終戦までの間、アジアの空を舞台として数々の勲功を挙げた。

生きて必ず戻る。ことが命令の根幹をなす任務のなか、遂に特攻の命令が、 しかし、特攻出撃の時を待たずに終戦。
苛烈な任務の連続だった父は奇跡にも生きて終戦を迎えたのだ。