都筑菜穂子のピアノ教室で、暖かく不思議な時間を過ごした田村敏和は、考えてはいけないと思っていた菜穂子との結婚を考えるように成っていた。
そして桜の開花が話題になる頃、田村は戸惑いなからも、菜穂子に結婚を申し込み、菜穂子はそれに応えた。
二人の結婚は、その周囲に波乱以外の何をも産み出すことはなかった。
田村の父親は、『真面目に生きてるお嬢様をいきなり赤ん坊の親に成れなんて、酷い話有るか。』そう言ったきり暫くの間、田村と口をきかなかった。
彼の父親でさえそんな調子だったから、菜穂子の両親や家族の落胆と田村に対する怒りは計り知れないものがあった。
そんな菜穂子の両親と田村は会うことになる。
菜穂子の実家近くのファミリーレストランの片隅。
来たのは父親だけだった。
菜穂子は、この父親が苦手だった。
自動車部品製造の会社を経営する菜穂子の父、都筑幸蔵は如何にも中小企業の社長と云う風体の、小柄ながらがっしりとした身体を作業着の上に社名を刺繍した防寒ジャンパーを羽織った姿で二人の前に腰を下ろした。
田村が申し訳なさそうに、お決まりの挨拶を始めると、幸蔵は軽く受け流し、彼の方から本題を切り出した。
『それで、いつ頃結婚するつもりなんだい?』
『は、はい・・・』
『まさか、するつもりが無いなんて言わないだろうね。』
『そ、それはもちろんですが、あの菜穂子さん戴けるんでしょうか?』
『戴けるんでしょうかったって、今更しょうがないでしょ、菜穂子は、昔からこうと決めたら、人の云うことなんか聞きゃあしない娘なんだから。』
田村の予想とは全く違った展開に、彼は少し戸惑ったが、二人にとっては救われる思いの幸蔵の対応だった。
あっと云う間に事態は進展した。
二時間ほど経って話も終わり、席を立とうという時に、幸蔵は菜穂子に言った。
『菜穂子、お前は父さんのことを嫌うけどな、なんか有った時は俺の方が話は判るんだよ、今日だって母さんなんか、腹ばっかり立てて、来もしない。そんなことしたって、なんにも解決なんかしないんだ。』
その通りだった。
長引くだろうと思っていたことは、父親幸蔵のおかげで全て片付き、二人は新しい道へ踏み出すことが出来た。
ファミリーレストランの玄関先で幸蔵を見送る田村が、『本当に、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。』と深く頭を下げた時だった。
『申し訳無いと思うなら、そんな事するなよ。』
幸蔵の眼に、一瞬怒りと哀しみが浮かんでいた。
この場所に来て、幸蔵が田村と会ってから、はじめて見せた父親の感情だった。
白髪混じりの頭に手をやって、去って行く幸蔵の顔はすでに、それまでの穏やかな表情に戻っていた。
駐車場を車目指して歩く幸蔵の後姿に、田村は、どれだけ時間がかかっても、この家族に認められる人間になろうと誓った。
誰にも祝福されることなく、光樹と三人の結婚生活は始まった。
貧しかったが、田村は幸せだった。
住まいの近くの会社に就職した。
望んだ職場でも、好きな仕事でもなかったが、とにかく家族のために働いた。
その職場では、誰も彼のことを『ビンちゃん』と呼ぶものはなかった。
田村は、会社の方針に意見を出す事も無く、目立たぬ存在でいることを心がけた。
どちらかと言えば子供の頃から、派手で目立つ存在で、リーダーシップを発揮するタイプだったが、田村はそういう自分のカラーを極力抑え、質素な生活を心がけた。
二年後に光樹に妹が生まれた。
平和な時間が流れて行った。
妹は貴美子と名付けた。
給料日の夜、二人の子供を伴い、田村の両親と共に、外食するのがこの家族にとってのささやかな贅沢だった。
少しづつではあったが、ゆとりの出て来た生活の中、田村は、このまま二人の子供の将来を第一に考えて、静かに世の中の片隅で生きて行けばいいと、思った。
菜穂子の両親も兄妹も、田村を受け容れてくれ、週末を利用しての菜穂子の実家訪問は、恒例に成っていた。
菜穂子の両親や兄妹に頼られるように成ると、あの日、幸蔵の背中に向かって密かに誓ったことが、少しづつ実現していくのを感じた。
事実、都筑の家に起きる様々な問題に田村は積極的に係わり、解決に尽力した。
苦労を強いられたり、金銭の負担の有る問題もあったが、田村は嬉しかった。
そして、三十年近くの時が流れた。
田村夫婦にも、それまでの期間には雨風、波風も当然あったが、菜穂子の忍耐と努力が破綻することを止め、田村は人並みな幸せを継続させていた。
光樹は、大学も卒業し、公務員になり、貴美子は、海外留学の後、外資系企業に就職した。
この長い年月は、田村自身にも大きな変化が有った。
ずっとこの侭でいいと、思っていた勤めは四十二歳で退職し、数店舗の飲食店を経営する会社の社長に成った。
そして、現在。
田村は六十二歳、無職。
菜穂子は、居ない。
去年の秋、買い物に出かけようとしている菜穂子を玄関に呼び止め、『無理だな。』と呟いた。
何が無理なのか、の問いも無く、『そうだね。』と即答し、小さな溜息をついた。
その日からの菜穂子の動きは速かった。
そして、その行動を田村は、まったく気づかずにいた。
続く。