田村の住まいから車で二時間ほどの閑静な住宅街にある一軒家を教室にして菜穂子はピアノを教えていた。
冬の夕暮れは早い、五時にはもう住宅街はすっかり暗く、区画された住宅街は碁盤の目のように道路が走り、車の往来は少ない。
都筑菜穂子は、白いコートを羽織り、悴んだ指先に息を吹きかけながら街路灯の明かりの中で田村を待っていた。
その菜穂子の前に車を停めた田村は、『中にいてくれればいいのに、寒かったでしょう』と、車の窓を下げて声をかけた。
『大丈夫。同じ様な家が並んでいて判りづらいから、光樹ちゃん眠ってるのね。』
助手席の光樹は機嫌良くはしゃいでいたが、いつの間にか眠っていた。
菜穂子に促され、光樹を抱え家の中へ入る。
広い廊下の右側に二十畳ほどのリビングがあり、そこにグランドピアノが二台置かれていた。
書棚には音楽関係の本と楽譜が整然と並べられている。
漆黒に輝く二台のピアノには塵ひとつ見当たらない。
ストーブの温もりが部屋全体に満ちてはいたが、この部屋の空気にひんやりとした神聖さを田村は感じた。
これは道場の醸し出す空気感だと彼は思った。
生徒は半分以上が子供達だと聞いていたが、子供とはいえ道を求める人間の鍛錬の場に変わりはない。
ソファに寝かされていた光樹が、大きく伸びをして目を覚ました。
田村の顔をや見た後、知らない場所に居る自分に気づいたのか、辺りに忙しく目をやり珍しそうにグランドピアノを眺めていた。
その光樹に菜穂子が声をかけた。
『光樹ちゃん、ピアノ触ってみる。』
光樹は自分にかけられた声の主の方に顔を向けた。
『抱っこしよう、光樹ちゃん』
菜穂子が声をかける。
光樹は瞬きもせず菜穂子を見つめている。
血の繋がりのある母方の祖父母にさえ笑顔を見せない光樹が、初対面の菜穂子に抱かれることなど考えられないと思いながら、田村は、黙って様子を伺っていた。
『菜穂子ちゃん、人見知りが激しい子だから、知らない人に抱かれたりしないんだよ、光樹は。』
菜穂子は田村の言葉に頷きはしたが、視線を光樹から離すことはしなかった。
両手を光樹に向かって広げたまま、微笑んでいる。
光樹は、相変わらず目を見開き菜穂子を凝視している。
どうせ光樹はニコリともせずに、最後は泣き出すのだろう。などと思いながら、菜穂子が淹れてくれた珈琲に口をつけた。
手に取ったカップを、テーブルの上のソーサーに戻そうとして、一瞬だけ二人から離した視線を戻した時、光樹が笑みを浮かべなから、ソファを降りておぼつかない足取りで菜穂子に近づこうとしていた。
菜穂子に抱き上げられると嬉しそうに身体を揺すり、嫌がる様子もない。
光樹が初対面の人間に抱かれて喜んでいる。
初めて見る光景に田村は驚いた。
何年も経ってから、この日のことを、懐かしい誰かに会ったような気持ちだったと、
菜穂子が述懐している通り。
不思議で暖かい時間だった。