些細なこと、と言えばそれまでのことなのだ、実際に他人からすれば些細なことに違いはない。
それでも、田村には簡単に決められることではなかった。
田村敏和は自分の周囲から『としかず』と呼ばれることは稀で、父母兄妹はもちろん、小学校から始って大学を卒業して社会人になっても彼の友人や近親者達は、彼を『ビンちゃん』と呼んだ。
そして彼が三度目の結婚の相手に選んだ都筑菜穂子も田村を『ビンちゃん』と呼んだ。
田村は三度結婚し、三度離婚している。
最初の結婚と二度目の結婚は一年と続かず破局したが、二度目の結婚で彼は男の子を授かった。
しかし、子は鎹とはならず、彼は離婚を選択し、生後十一ヶ月の光樹を引き取った。
乳離れも出来ていない息子を、母親から引き離すことは、可哀想などと云う以上に多くの問題がある。
それくらいのことが判らないほど、田村は愚かでも無く、自分勝手でもなかったが、彼は息子の光樹を引き取ることをどうしても譲らなかった。
もちろん、理由は有った。
離婚した後、光樹の母親は働かなければならない。
光樹を自分の両親に預け、働きに行くのは間違いない。
理由は、その妻の両親だった。
彼は、この光樹にとって祖父母にあたる二人に光樹の育児の手伝いをして欲しくなかったのだ。
時の経つのは速い。光樹も直ぐに言葉を理解し、文字を憶える。
そして、毎日、毎日、事有るごとに自分の父親が、如何に悪辣で非道な人間だったかを吹き込まれ。そうしながら成長していく光樹の事を考えると胸が苦しくなった。
二度目の妻自身も田村に対する悪い噂を周囲に振りまいた。
悪意に満ちた誇張と虚言だった。
彼の心が離れて行くことに焦りを感じ、焦りは怒りと嫉妬に発展して行く。
それは事実の歪曲と虚言とを織り交ぜた悪意の物語を創り上げた。
別れる日、田村は彼女に光樹を背負わせ引越しに同行させている。
車で二時間以上かかる新居に着いた時、彼は言った。
『俺はここで光樹と一緒に生きていく。光樹がどんな処で暮らすのかを見ておいてほしかった。君はもうここには来るな。君は君の人生を生きて行ってくれ。』
どちらかと言えば、離婚の現実を受け容れ切れていなかった彼女の中で、初めて離婚が現実に成ったようだった。
その日から、彼女の逆襲が始まった。
周囲の人達に彼女の言葉は、鮮烈だったろう。
『買い物から帰ったら、家の中はもぬけの殻、光樹も連れ去られていた。』
家一軒分の家財道具を運び出すのに、買い物の為の外出時間は余りに短い。
周囲は、その稚拙な嘘を信じた。
何処に行ってしまったのだろうと泣き崩れる彼女の姿に友人達はもらい泣きし、同情した。
家族ぐるみで付き合いの有った友人夫婦が引越しを手伝ってくれていた為に、彼女の嘘は、直ぐに周囲の人達の知る処となり、警察に届けようと騒いだ連中の勢いも、潮が引くようにおさまった。
光樹と田村と、彼の両親の新生活は始まった。
田村には離婚する一年ほど前に知り合った女性がいた。
その女性と田村は、やがて深い間柄になったが、田村には結婚をする考えはなかった。
女性の名前は都筑菜穂子といった。
ある冬の日の午後、彼は菜穂子に光樹を会わせた。
そして小さな奇跡は起こった。
其の壱、了。