虐める 苛める イジメる | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

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夏もいよいよ本番だ。
写真は、数日前の撮影現場。

パッと見たところ海外の様だが、此処は日本、しかも関東に在る、
家を出てから今日で10日以上が経った。
還暦も、慌ただしく仕事場で迎え、味気ない思いに駆られたが、よく考えてみれば、それは幸せな事なのかもしれない。
いや、幸せな事だ。
昨今のメディアを賑わせている『イジメ』問題が、ふと脳裏をよぎった。

若い命が犠牲に成った。

自ら死を選択したとは云え、そのスパイラルに陥りさえしなければ、自ら命を絶とうなどとは絶対に思うはずはなかったろう。
やりたかった事、行きたかった場所、読みたかった本、伝えたかった思い、逢いたかった人、食べ
たかった物、知りたかった事。
夢を語り、希望を目指し、誰かに恋をし、誰かに愛され、身体一杯に青春を謳歌し、やがて夫となり、親となり、時が来て自らの親の最期を看取り、ゆっくりと愛する妻と老後を過ごし、寿命を全うする。

数え切れない程の幸せや、苦悩や、障害を経験し、成長し、人しての佇まいを身につけて行く。

誰もが、当たり前に経験するであろう事の何分の一すらも経験せずに、君は逝ってしまった。

宙空に身を投げ出す為に昇る階段の一段一段を君はどんな思いで脚を運んだのだろうか。

大空に身を投げ出した瞬間、君は幾ばくかでも、言いようの無い暗黒の日々からの解放感に浸る事が出来たのだろうか。

現世との絆の切れる時、君は誰を思い
、誰に怒り、誰を恨み終わりを遂げたのだろうか。

人は云う。
『何も死ぬ事はなかったろう』と。
中には、君の様な立場に成ってしまった人達のことを、悪く云う風潮さえある。
自らの決断が、けして正しい事では無い事など、誰より君が一番知っていたはずだ。
それでも、その道を逝くしかなかった
君を護れず、君を救い出す事の出来なかった我々は、君の行為を評論する資格など無い。
『イジメ』に責任の分担は断じて無い

犠牲となった君の心の弱さを問う権利など有り得ない。
狂気に満ちた愚か者の集団に対峙出来る強靭な心など誰人も持ち合わせてはいない。
それでも君は、きっと最期の最期迄、孤独で不毛な戦いを続けたのだろう。

悔しかったろう、虚しかったろう、
許せなかったろう、怒り心頭に発する思いだったろう。

仏教の死生観は生命を永遠不滅と説いている。
生死流転の繰り返しの中で君の生命は
必ずまたこの世の中に戻って来る。

君が次に生まれる日迄、生き残っている我々は、命を賭けて『イジメ』の根絶を目指さなくてはならない。

束の間の休息の後、この世にまた生まれた君の生命が、今度こそ理不尽な狂気に晒されること無く、一生を全う出来ることを、祈るばかりである。


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