前回の更新から今日まで、世の中はいろいろなことが有った。
政治も、経済も、自然界も、だ。
多くの国民が幸せな未来を託した民主党は、政権交代以来三人目の総理大臣を擁立して国民の期待に応えようと必死なのだろうが、私達国民との意識のズレは如何ともし難い。
もはや『溝』と云う言葉では表現しきれないほどそのズレは大きい。それは『河』である。
国のリーダーとは、時に外国との軍事行為、平たくいえば戦争状況だ、そして天変地異。
この様なあらゆる事態の中で国家国民を率いて安定させる責務と使命を持ち、その事に言わば人生を賭けねばならない。それを以って国民は、尊敬と崇拝と信頼の意を示すのだ。
東日本大震災とその後の原発事故、更にそれらを原因とした経済低下。進まぬ被災地の復興。
特に長引く不況の果ての大震災は日本の長期的不況に油を注した。日本は今、満身創痍である。
国民は、大きな大きな犠牲の中で自らが忘れてしまったものに気付き、取り戻しつつある。
しかるに、政府も国政に携わる者の殆どは勘違いしている。
政権交代するとか、選挙するとか、確かに政治が世の中に与える影響は大きい。
しかし、全てがそれで円滑化される訳ではない。
法案も、条例も、規則も憲法も国民の生活を安泰に保つ為のアイテムに過ぎない。
肝心なのは、それらを行使する人間の思想、行動、精神だろう。
現在の閣僚達を視ていると非常事態に対する構えが出来ていない様に視える。彼等は多少の個人差はあろうとも逆境知っている様には視えない。修羅場とは無縁な所を恵まれた環境の中で歩んで来たのだろう。
国家は、誰かがその舵取りをしなくてはならない。
一人の人間の一生でさえ、安穏な時など僅かな時間しか無い。まして、国家の進む道に何も無い事など在り得ない。
経済、金融のエキスパートも、税や福祉の専門家も、法律のプロも政府には必要だろう。
しかし、国家のトップリーダーとは、そう云うものとは別の能力が要求されるのではないのだろうか。
『命を賭ける。』
最近、このての言葉を口にする政治家も多いが、想定外などと云う言葉を言い訳に用いている様では、『命を賭ける。』と言われても説得力の欠片も無い。
上手く話すことに『命を賭ける。』のではなく、国家国民の為に『命を賭ける。』無私の政治家の出現を熱望するばかりだ。
ところで、この写真の少年は誰なのかと云えば、私である。
多分、小学三年生のものだろう。
東京タワーが完成したばかり、東京オリンピックの開催を心待ちにしていた頃だろうか、高度成長期の日本で賑やかに毎日を送っていた懐かしき日々である。
