久方の映画鑑賞 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。



映画鑑賞と云えばもっぱら家でDVD、というのが主流になって久しい。
映画館に行く事は、一年に一度も無いと言っていい。
とくにこの十年はそんな感じが続いている。
そんな私が今年は既に二度も映画館に足を運んでいる。
観たのは二本とも邦画で、一本は『テルマエ・ロマエ』で、私が語る迄も無くダントツの大ヒットで、過去の興行収益の記録を塗り替えながら様々、新記録を樹立しているようだ。
GWの後半に観たのだが単刀直入にいって面白い、物語は古代ローマの建築家が現代にタイムスリップ、しかも何度も過去と現在を行ったり来たりしながら、過去でも、現代《何故か日本⁉》でも騒動を巻き起こしたり巻き込まれたりのドタバタ喜劇だ。
あくまでも私の私観だが、この作品は大衆娯楽としての映画の必要条件全て備えていると言っても過言では無いと思う。
笑いが有り、涙と感動が有り、サスペンスも有ればラブロマンスも有る。
理屈抜きで楽しめる。
観終わった後に映画はこれでなくちゃと思わせてくれる。
今年は邦画のヒット作が目白押しらしいが、嬉しい話だ。
さて、もう一本は数日前に観た『貞子3D』。
ジャパニーズ・ホラーここに有りを世界に知らしめた『リング』の新作であるが、それまでの物とはかなり違うテイストに仕上がっている。
過去の一連の作品には日本特有の『怪談』の持つ愛憎、怨念、が底辺に漂い、観る者はその言いようの無い哀しみと共に恐怖心を増幅させていたように思う。
怖い、けれども可哀相だ。
怖ろしい、けれども憐れだ。
日本の怪談には、ある種の美学が在ると思うが、今作にはその古き良き日本の怪談のDNAを継承している様には感じられなかった。
風情無き恐怖、とでも言おうか。
とくに後半から登場して来る貞子の怨念の分身とでもいうのか、四つん這いになって駆け回る異形のクリーチャーに至って私の貞子感は完全に壊されてしまった。
帰り道、私の胸には何故か中学生時代に観た大映の『牡丹燈籠』の或るシーンが浮かんだ。
それは、本郷功次郎演ずる主人公の若侍が子供達と夕暮れの近ずく川沿いの土手らしき所を歩いて行く場面でスクリーン一杯に拡がる夕焼け空のあまりの美しさに、未だ14歳だった私は言葉を失った事を今もはっきりと憶えている。
監督はなんと、山本薩夫である。
怖いより、一途に想い合う男女の悲しい恋の顛末に思春期の私は胸を締め付けられた。
貞子の悲哀が少しも感じられずに映画は終わり、虚しさが残ってしまった。
次回、貞子がまたスクリーンに登場する事が有るなら、日本には日本特有のホラー文化が在る事を制作に関わる方々はお忘れなき様、切望するばかりである。