甦る父の記憶 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

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バリ島に行って来ました。

と云っても、観光旅行ではありません。

南の空と海を眺めているうちに、気がついたことが有ります。

livedoorの頃から、何度となく私のblogに登場する父のことです。

縁もゆかりも無いと思っていた熊谷に越してきた十六年前、生前の父は私に言いました。

『熊谷か、懐かしいなぁ、士官学校が籠原に在ったんだ』

父は、旧制中学を卒業し、法政大学へ進み、そこから一期(年)8名という難関を突破して籠原にやって来ました。

寡黙な父は、多くを語ることは無かったのですが、父と同世代の人に聴くと、当時の若者達の憧れの的の、エリートだったことは確からしい。

その、父親ゆかりの熊谷で、プロレス団体を興し、億を超える負債を抱え、一念発起で、水商売の道へ進み、負債は完済。
これで、穏やかに老後を迎えよう、迎えられると思ったのが5年前、数店舗の経営も、まあ~順調だったのはこの頃迄、気がつけば、すべての店を手放し、また一文無し。
Benz、BMWを乗り回していたのが、今は自転車に跨がり、路線バスを乗りこなし、財布の中にはSuicaを忍ばせる変わり様。

それでも、結構気楽な毎日を送っています。

苦労を掛けている家族には言えませんが…。

話を戻しますが、私は、店舗経営の他にも仕事をしていました。
その関係で、数年前から、海外に出る機会が増えています。

台湾、タイ、グァム、サイパン、インドネシア、ついでに沖縄。(海外ではない)

この十年間、仕事以外の海外は、ハワイだけです。

バリ島の夕暮れが迫って来る空を見上げながら、この空を、60年以上も昔、私の親父が飛んでいた のかと思うと感慨深いものが有りました。

そういえば戦時中、台湾も、タイもインドネシアも、他の処も、みんな親父が日の丸を付けた飛行機で飛んでいた地域でした。

ホテルのバルコニーから、遠く、デンパサール空港へ着陸態勢に入ろうとしている旅客機の機影を眺めながら、私は父親を懐かしく思い出していました。