衝突は僕にとってさまざまな想いを増幅させるだけの効果があった。
僕の価値観において、人と衝突することは悪ではなかった。
めんどくさいという言葉で片付けるのはすごく簡単な事だと思う。
でも、人にわかってもらうとかわかってもらえないとか、もらいたいとかそういうのを関係なくして、
僕が僕であり続けるために、僕は主張し続けるし、きっとこれからもそういう人生だと思うし、
僕はそのために生まれてきたんだって胸を張っていえることになっている。
僕が僕であることの理由は、なんでもよかったのかもしれないけど、ただ少なくとも、僕を形成する要素は僕が21年間生きてきたものから成り立つと信じているので
僕がここで語ったことがそのまま僕になると信じていたい。
人を動かすを読んでみて、僕はなんだろ、それが世の中をうまく生きていくために必要なことだということが分かったし、
何かを成し遂げるために必ず必要なことなのかもしれないと、カーネギーと対話を通じて感じていたと思う。
今の自分にその本が必要だと思ったから手を伸ばしたし、今でも人を動かすを読むことはみんなにおすすめしたいと思う。
でもあの本を読んだからといって、誰しもがカーネギーのように人とうまくやっていく術を身に付けるわけではないということは、
僕の身の回りの人たちを見ていればわかることだと思う。
大事なのは、そこから何を読み取るか、その読み取ったものが自分自身の中でどのような価値をもたらすのか。
僕がそこから学んだことは、自身の感情を如何にしてコントロールすべきか、という内容のほうが色濃く残っているから、
人によってそこから学べることは違うと思う。でも、だからこそ、
人が学んだものを自分も得たいと思うし、それを常に友人に対して実践していると思う。
僕はそれを疑似経験と呼んでいる。
自分が生涯得られる経験には限りがあり、自分の経験したいものを自分で選んでいる側面がある。
でもそれでは本当に豊かな人生は送れないと思うし、それこそ成長できない。
だから、僕は人が経験したことを自分も経験すべく、その人の立場を自分に置き換えて考えることを実践している。
そこで口癖にしているのは、自分だったらどうしよう。なのだと思う。
そうやってさまざまな経験を増やせたことは、自分の見識と、自分の見れない世界を見るのに非常に役に立っている自信がある。
そう、僕は常々、自分以外の人が見ている世界に対して異常なほど好奇心を寄せていると思う。
自分の経験できる世界には限りがあるとわかっているので、僕はできるだけ人の世界を覗きたいと考えてる。
それはきっと小学生の時からそうなんだけど、僕は僕の知らないことに対して異常なほど不快感を抱く人間だったから、
僕はいろんなところに首を突っ込んでは怒られていたし、それは今でも直らない自分という人間の特徴なんだと思う。
僕は自分の知らない街に行くのが好きな人間だと思う。
景色を見ることが好きだと思う。
僕がそこで感じているものは、
僕がその景色の一体になっているという感覚だと思う。
僕は僕がそこにいる感覚をずっと味わっていたいと思う節がある。
出来る限りその感覚を、大好きな人と共有したいとも思う。
しらない街には僕のしらないストーリーが縦横無尽に存在していて、
それは僕が知りえない、その人たちの世界がそこにはあって、
その世界を知らないことが僕にとって不快感を抱かせるタネになってる。
僕はその意味で、他者の歴史を知りたいとも思う。
それは僕の経験しえなった事実と、その人が今まで抱いてきた思考と感情とその他もろもろを知るきっかけになっていると思う。
他者の歴史に興味を寄せ、知りすぎると、
その人がどのような歴史を歩いてきたかが帰納的にわかってしまう問題点もあるから、
僕は人のことを見た目で判断するようになってしまった。
でも、それは僕にとって大きな長所にもなり得ているので、僕はその能力を存分に発揮していきたいし、そうすべきなんだろう。
僕が僕の存在する世界以外に対してほんの少しだけ寛容的になっていったのは、もしかしたら大学にはいってからのことなのかもしれない。
今でもそうだけど、今よりももっと、僕の身の周りの人間が過ごしてきた日常にはなんのユーモアもなんのハードルもないような気がして、
苦労のない人生はその人のその後の人生を選択するうえで、苦労のないものを選び続けるだろうなんて思って、
僕がそれを嫌だと思うだけだけど、僕からすると、社会の労働者として生きることになんの思考もせず甘んじることで、自分の保身に走る人間は単純に
悪なんだとおもう。
でも、それは究極的に僕の価値観でしかないことはわかっていて、でもそこに対して寛容になれない弱さもある。
ただ僕がおかしいと思うのは、自分のことなのに自分で考えようとしないことについてだけだと思う。
その思考停止した甘さを、他者に責任転嫁して、自分はなにもなかったように腑抜けた顔をしているのが単純に許せないような気がする。
思考停止をも価値観というのもまた、思考停止に陥っていると思う。
自分のことを自分が一番思考しないのは親不孝だとも思う。
それよりも強烈に僕が抱いているのは
君はなぜ生きているのか?
だけだと思う。
人間はただ漫然と時間を浪費するだけの為に生きていると、この地球の規模で見ると害でしかないと思う。
そして君が漫然と生きていけば生きていくほど、
生きていくことすら困難な人たちに対して失礼だと思う。
なぜ自分は生まれたのか、なぜ生まれなければならなかったのか。
それを親の自己満足で形容したくないからこそ、死ぬほど悩んでいいと思う。
死ぬほど悩んで死にたかったら死ねばいいと思う。
死ぬほど悩んで生きていきたいと思うなら、自分の人生に意味を少なくとも見出そうとしてほしいと思う。
その時間を先延ばしにしようとすることは僕にとって悪だ。
なぜなら、その時間は誰かにとって貴重なものであったに違いないから。
僕は不平等や不公平にはしぬほどうるさい。
それはなにも、自分の生きている世界だけではないと思う。
僕は少しだけ、その意味でベジタリアンの思考回路が理解できる気がする。
僕たちは、少しだけ恵まれすぎたから、その分だけ誠実に生きていてほしいと思っている。
僕は価値観を押し付けるようなことを言っているのはわかっているけど、
それでもみんながそう思って生きていけばいいと思うし、もっとwhyの部分を大事に、自分の存在価値の証明を成し遂げてほしいと思うし、
それが僕の生き方なんだって割と自信をもって言えると思う。