昔から、どこか人と自分の見ている世界が違うような感覚があった。それは大人になるにつれて、おかしなことであると教えられていたから、
あまり人にいうことはなかったし、それに気づいていくのも、中学生という時期的な問題もあって、
それを恥ずかしいものとして認識するようになっていった。
高校生になって、なんとなく確信に変わっていくようになっていった。
高校生のころの僕は、自分の見ている世界にこそ本質があり、正しいものだと思っていたから、それ以外のヒトたちの見ている世界がチープでしょうもないものだとして排他的でいた。
高校生のころの僕は、とかく精神状態がよくなかったように思う。たとえていうなら、振れるだけで切ってしまうナイフのような性格をしていたと思う。
僕は他者の存在を認識する力を失っていく感覚を、今になって自覚していると思う。
家庭環境と学校環境はその人の人格を変容させていくのにふさわしいだけの要素が揃っているように思う。
僕が中学生の頃、僕が頼れる存在はどこにあったのか、今では思い出すのも難しいかもしれない。
両親は僕11歳のころに離婚していて、僕は単純に、自分だけの部屋ができることを喜んだ。
もともと両親の仲が悪いことがすごく嫌だった。僕はその時の表現力でしていうことが適切だと思うから、嫌だなとだけ単純に思っていたことだけを伝えたいと思う。
でも、それだけだった。親は相変わらずパチンコで勝ったときはお小遣いをくれたから、僕にとってパチンコはいいことなんだって思っていた。
中学生になると、親が僕に反抗的になるような気がした。僕は俗に言われる反抗期に突入したのだと思う。
僕の家庭の中で起きていた諸問題は、とても酷いものだった。
中学生になってからの僕はまだ表現する力が足りなかったので、親に口論で言い負かされてばかりだった。
まずは論理的になることを目指そうと思った。 結果として僕は論理性を身に付けることができた。
でもそれでも親は理解してくれなかった。今になってわかる。論理的に話ができるという能力は、問題解決の要素にはなるけど、対象によって問題解決を妨げる要因になるということが僕にはその当時理解できなかった。
親は僕の論理力を避けるようになっていった。
じゃあ出てけだの、死ねだの、言いたい放題言うだけになる親を真底憎んだし、様々な衝動に駆られることもあった。
いわば、修羅場として僕の家庭環境は存在していた。
父親には論理性で勝利することができても、暴力で勝つことがいまだできなかったので、とにかく悔しかった。
中学生の僕を能書きばかり垂れやがってと罵る親を僕は見下していた。
高校生になると、僕の身体つきも立派なものになっていき、親もまた老化には勝てなかったみたいなので、
いつのまにか殴り合いの喧嘩をすることはなくなっていったし、父親に関しては、その後僕の良き理解者になっていったので問題なかった。
中学生の頃から、僕はひとりでいることが多かったような気がする。僕は究極的に孤独であったことを今になって思い返して言えるような気がする。
僕は家が好きではなかったので、友人といる時間はかけがえのないものだった。 中学から一番近いところに住んでいるはずの僕が一番最後に家に到着しているのは、
友人たちと帰り、遊ぶためにしていたことだった。
中学の友人たちとは今では結構疎遠になってしまっているが、僕にとって彼らは僕が死なずに済んだ理由にもなっているので、感謝していると思う。
先も言ったと思うけど、人格形成は家庭環境と学校環境によるものがほとんどだと思うので、僕がいなくなってからの彼らの人格にはあまり関与できない。
それでもなお、僕が孤独に感じるのは、本質的に友人たちと自分の存在になにか隔絶した距離感があるような気がしてならなかったからだと思う。
それは僕の生きてきた経験というよりもむしろ、先天的な要因のように感じられる。
僕がこのような人間になったのは家庭環境と学校環境によるものがほとんどだと思う。
僕が家でできることはほとんど限られていた。
テレビゲームをしていると親にテレビを消されるかブレーカーを落とされてしまうので、そのうちしなくなった。
ギターを始めると親がギターを弾くことを拒み、僕のギターを勝手にリサイクルショップに売り出してしまった。
友達と始めたバンドで担当したのはベースだったので、かろうじて音が漏れることなく楽しむことができた。
家でできる唯一のことは、ゲームボーイと漫画と音楽とラジオを聴くことくらいで、そのほかの時間は考えることだけをしていた。
僕の今を形成しているのは、間違いなくその孤独の思考時間だと思っている。
高校生になるとその思考力に拍車がかかるようになっていった。携帯電話を所持しだしたからだと思う。
僕は文章を書くという営みをそこで覚えたし、それによって人に想いを伝えることもできるようになった。
大抵の内容はもしかしたらくだらないものなのかもしれないけど、僕にとって思考を文章化することと感情を文章化させることはとても大事なことになっていった。
僕の見ている世界はがどのように形成しているのかは、僕もきっとあまり理解していないけど、
高校生の頃に先生に確かに伝えた、僕の見ている世界をいつか表現したい、という思いは今も間違いなく失われていないと思う。
僕の高校は都立高校だったけど、勉強なんてしなくてもはいれるような高校だった。
偏差値でいったら49くらいのものだし、定員割れしているくらい人気のない高校だったと思う。
僕はできる限り戦略的に、勉強しなくても入れる高校を選び、さらにサッカーをしていくことを高校に通う目的にしようとした。
僕は半年もしないうちに部活を続けていくことが困難な状態になった。
となると、高校に通う目的がほぼなくなっていくということを意味することになる。
僕は高校に通わなくなった。勉強はもちろん、生きていくうえで必要のないものだと思ったので、しなかった。
親には高校を卒業したら面倒を見ないといわれていたので、そもそも僕には大学に通う権利すら与えられていなかった。
そうなるともはや、勉強が僕に何を与えてくれるのかわからなかった。
でも確かに、僕の中には自信しかなくて、学校で仕方なく受けさせられる模擬テストには、早稲田と慶應の名前だけを書いていたような気がする。
僕はその学校こそが僕にふさわしいものだと、根拠もない自信に満ち溢れていたから、それ以外の大学には興味もなかった。
僕は高校2年生の時に停学になり、学年最後の修了式に参加することができなかったことがある。
今になっては恥ずかしいものだけど、それが笑い話になって同級生とつながっていられるのなら、僕にとっては大切な経験だと思う。
僕はあの時僕の存在を認めてくれる人の存在が必要だった。
僕のことを認めてくれた存在は、今でも僕は頭があがらないような気がする。
その二人は、高校の担任の先生と、教頭先生だった。
教頭先生は、早稲田に行きますと校長先生に豪語した僕に対して、
お前は頭がいいから、頑張れよといってくれた。
僕は何をもって僕のことを頭が良いと形容するのか理解できなかった。
僕の名前を知っているわけでもない教頭先生が、なぜ、僕を理解するような言葉を残してくれたのか。
でも僕に差し出してきたその年輪を持った大きな手が、僕の存在を承認してくれるだけの感触を残してくれたのだけは覚えている。
不思議に思った僕は居ても立っても居られず、当時の担任にその訳を聞いてみると、
論理的に話すことができることをその要因として挙げてくれた。
担任は僕にそれとなく話したことがある。
お前の担任をおれ以外のだれが受け持つことができるんだって。
僕はその理由を知っていたし、僕もまた、ほかの教師が僕の担任をやってほしくないと思っていた。
僕のいるクラスに受けに来たくない先生がいることも知っていたし、僕は教師を見下していたし、
そんな生半可な授業をする教師がなぜ存在し、偉そうに物事を説くことができるのか不思議でしかなかった。
僕はそのような、自己利益の為に行う名目上の社会貢献に吐き気を催し、教師に、教育の本質を問いたくて仕方なかったし、現に、教師にはそのような気持ちでその職業についているのなら、やめちまえと言ったことが何回もある。
それが目上の人達に対していう適切な言葉だったかどうかはわからないけど、確実に、僕の中の問題意識を沸立てるものとしては十分な経験だったとも思う。
ちなみに、僕を受け持ってくれた担任の先生には本当に感謝をしている。
僕が停学になる前、僕は先生に対して、
今は自分は尖っていてもいいと思う。という話をした。
きっと今しかそうしていられないと思うから、僕はそうしていたいと思うと話した。
僕はその言葉を正しくするのには成功したと思う。あの時の経験は確実に僕の血肉になっているし、
僕を成長させる要因としてふさわしいほど大切なものになっているに違いないと思う。