石鎚村の郷から槌之川集落へ | ア-ルの写真記

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四国の山間(主に石鎚山系)で「人と自然」をテーマに
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最初思っていたより、はるかにやっかいなコロナウイルス。三密は避けなさいとのことで、酒が伴う会合や趣味でやっている剣道の稽古など、中止やいろいろと制約が付く窮屈な日常。コロナで運動不足と加齢だろうが、足腰が弱くなったな、と実感することがある。

建国記念日の2月11日、数日前の天気予報では「晴れ」。急遽石鎚の星ヶ森峠から郷→槌之川→郷→星ヶ森峠へと、行く予定をたて、運動不足の鬱憤を晴らすがことく、古道を歩いてきた。

郷や槌之川集落は、今までに何度も行っているけど集落内は広い。まだまだ巡り会えていない景色や場所もある。季節や天候が違えば、見えてくる景色も違うし新しい発見もある。それを期待して今回も行った。体力や筋力は衰えを隠せないが、行く前のわくわく感と好奇心はあまり衰えてないように思う。そしてとにかく「安全第一」を肝に銘じ、行くことにしている。

星ヶ森峠(金の鳥居)から望む石鎚山は素晴らしい、と仰ぎ見るたびに思う。石鎚山を遠望するビューポイントのひとつだと思う。星ヶ森峠から石鎚山の冬景色も撮りたいということもあり、石鎚の頂がきれいに見える日を選んで行こうと思っていた。当日の天候は百点満点とはいかなかったが、まあ70点かな、というところ。今回は石鎚山の頂を、行きも帰りも星ヶ森峠から見ることが出来た。

横峰寺奥の院 ・星ヶ森峠を越えて道幅の広い比較的になだらかな坂道を下りていった。歩いて通る山道にしては道幅が広いな、と以前行ったときに思った。横峰寺へ物資などを運ぶため、動力の付いた運搬車が一時期この道を往来していたからだ、と後で知った。自動車が通れる平野林道が、県道12号から横峰寺近くまで昭和59年に完成するまでは、遍路道としておおぜいの人がこの道を利用した。また、車社会到来前で山間まで車道が整備されてなかった大正以前は、周桑平野やその近隣の人たちが石鎚山を目ざし登って行くとき、多くの人たちはこの道を利用したようだ。

 

人が住んでいた場所や耕作地跡に、植林した木が成長し、あたり一帯を覆っている。間伐した木はそのままで放置している。近年は少し木材の値が上がったというが、間伐材を産出しても採算ベースには、まだほど遠いという。

森の中の道を下っていくと、お堂と六地蔵がある。六地蔵の前に「元 千足山村郷集落跡」と彫った石碑が立っている。郷集落で生まれ育った伊東鶴一氏が昭和54年に建立した碑だ。碑の左面に「有る限り語り伝えよ郷の坂」と五七五の文字が刻んであった。

 

六地蔵の横には「薬師堂」と呼ぶお堂が建っている。建物回りに打ち付けてある外板は経年劣化でだいぶ傷んでいるようだ。石の上に立つ柱も朽ち、傾きかけている。このままだと、台風などがまともに押し寄せれば、倒れてしまいうかもしれない。郷に住んでいた伊東祐次郎さんの五代前、伊東昭という人が明治時代に薪を拾いに行った帰り道、ふるぼ(古坊のこと?)の川で大日如来像が光を放っていたのを見つけ、それを背に乗せて帰り、このお堂にしばらく祀り、後に横峰寺に返した。ということを、名古屋の勘七という人が記した板をお堂で見た。廃仏毀釈で横峰寺の御本尊である大日如来像が川に捨てられていたということなのだろうか。明治の一時期、横峰寺の御本尊 大日如来像は古坊にあった大峰寺や、ここ郷の薬師堂でも一時期匿っていたようだ。

 

六地蔵前から槌之川へと、なだらかな坂道を下っていった。しばらく行くと石垣が見えはじめた。郷集落にはかつて小学校や教職員住宅があったというが、石垣上にあったようだ。

 

石垣上に上がってみると広い敷地があった。あたりを歩いてみたが、小学校だったという痕跡を示すものは何もなかった。

 

石垣の上が小学校跡。石垣下に道が通っていてそこを下って行った。

 

道横に地蔵が台座の上に座っている。台座には寛政四と千足山村の文字が彫ってある。

 

地蔵の右横にある板状の石に「本尊阿弥陀如来」の文字が刻んである。ここは、この村を千足山村や千足村といっていた時代に盛んだった村内のミニ四国八十八ヶ所の札所。右下に小さく「前〇〇」と前の文字だけがわかる。前神寺のことだろう。右側は割れて破損しているが、割れた部分に札所の番号が彫ってあったと思う。

 

少し下がっていくと水場に着いた。少しづつだが流れ落ちている。ここでちょっと水を飲んで一服。谷の水はうまい。

このあたりの道はまだ道だとわかる。

 

狸の糞?「狸のため糞」というものなのだろうか。無礼にも人が通る道にうんちをしているが、この道は狸が通る道でもあり、狸のトイレでもあるようだ。

 

枯れた木が道に倒れ横たわっていて、くぐり抜けて行った。

 

谷中は晴天の日中でも、木々が覆い尽くし陽当たりのよくない場所が多い。枯れて久しい倒木にキノコが生えている。美しい色や形をしたたくさんの種類のキノコがいっぱい方々に生えている。誰かに見てほしいのだろうか。

 

水が流れ落ちる音が聞こえてきだした。下りていくと滝がある所に着いた。

 

古道は訪れる度にだんだんと傷んでいくのがわかる。上って行き右に曲がるといつもの六地蔵と出会う。ここで一休み。

古道に長年積もり分厚くなった落ち葉を踏みしめながら下りて行った。安物の靴で靴底は薄いが弾力性はある。踏む度に足裏の土踏まずをソフトに刺激してくれるので気持ちよかった。

 

 

道横のほぼ垂直の崖下に、石碑が倒れていた。

起こして石台の上に立てかけ、彫られている文字を覗き込むようにして見ると。○○○群○之谷村 ?の文字 墓石ではないように思うけど解らない。

 

 

下っていくと石垣が見えてきた。この辺りには畑あったのだろう。

 

小さな谷川が前に行く道を横切っている。デカイ石を丁寧に積上げて造った護岸だが、しだいに崩れ始めているようだ。セメントがない時代は、大きな石がその役割を果たしていたようだ。

ツタがまるで遊んでいるみたいに自由に動き回り、絡まりながら伸びている。山中にはツタが絡まりながら生えている所がたくさんある。ツタが絡まるり造る造形美というかアートをたくさん今までに写真で撮ってきた。見ていると楽しくなる。しかし、写真にするのは難しい。もっと上手に撮れと自分に言う。

 

この石垣の上は、平坦地が広がっている。

 

雨天時に流れ落ちてくる水を受け止める小さな谷川に、石橋が架かかっているが、護岸は崩れ始めている。この橋を渡って行くと広い敷地が広がっている。

 

五右衛門風呂が残っていた。風呂の向こう側の下に焚き口があったようだ。石鎚村が千足村といわれていた時代、ここ槌之川集落に派出所や村役場があったが、この辺りに集まってあったようだ。

 

すぐ横は谷川が流れている。谷川に出て天ヶ峠がある上流域を眺めた。谷川に沿って、天ヶ峠に行く道が古い地図では記載されているが、今も残っているか、ちょっとだけ上の方に行ってみた。道だろうか、と思う場所が所々にあった。次回来たときは、ここから天ヶ峠を目指して歩いてみたい。

 

この辺りに来ると青々とした空が見える。植林地帯を抜け出したみたい。天気はいい。

 

石の上に糞がある。何の糞だろう。

 

ここにいると、谷水の流れる音以外はほとんど聞こえてこない。

鳥の鳴き声も聞こえない。猪や猿はこのあたりにいるのだろうけど、人の気配を察知して、ちょっと距離をおいているようだ。

 

来る途中にあった滝まで引き返すことにした。滝前から道なきところを下りて行き、先頬の谷川の下流出会うコース。以前に一度だけ下りたことがあった。そのとき、滝前から谷川に下りていく石段道の痕跡を見つけたが、もう一度見てみたかった。

 

木に絡んで来るツタや動物から木を守るためか、周りにトゲのようなのがたくさんある木を見つけた。平手で木を掴んでみたが、何かとげとげしくて、強く掴むと痛かった。

 

初めて来てここを通った時、路肩は草がいっぱい生えていて、道は崩れてなかった。食べ物を求めて、猪はいたる所の地面を穿り返すので、草も十分育たず道もわやになってきている。

滝の下まで戻ってきた。石鎚村(千足山村)出身の伊東鶴一氏著「山家の思い出」の中に千足山村各集落の手書きの地図があった。槌之川集落の地図を見ると、滝の下から谷に向かっておりていく石段道と書かれた道が記されている。その石段道を滝下から俯瞰してみたが見あたらなかった。その道あたりを前回来たとき下りてみたが、それらしき構造物は見なかった。流れ落ちていく岩や土砂、流木などと共に消えていったのだろうと思っていた。しかし、帰ってから谷を下りながら撮った写真をよく見ていて、どうも規則正しく石が並んだような個所があった。これはひょっとして石段道では?と思った。

石段道だったのだろうかと思うような所が一ヶ所だけあった(下の写真)。平らな形の石が横に並び、人が積んだ形跡が残る?

しかし前回見た時よりは、さらに荒れてた谷に思えた。

足下に気をつけながら沢を下りていった。

苔むした地蔵が谷間に転がっていた。

 

このあたりは墓場だったのだろう。古い墓石がいくつか転がっていた。寛延三年(1750年)?の文字が見える。

宝暦五(1755)の文字も見える。

石垣がちょっと出っぱって積んであった。中に鉄製の釜があり左側面に焚き口があった。伊東氏の手書きの地図では滝前という屋号のお家の風呂ではないかなと思った。

 

焚き口に石板を被せていた。被せた石板を除けようとしたが、除けると崩れそうなのでやめた。少しだけ焚き口の内部が覗けた。

 

風呂の焚き口のそばにうんすけが転がっていた。醤油や酒や酢を入れたりして使っていたのだろうか。昔、近くの店屋でこの容器に酢を入れて、量り売りしていたのを思い出した。

槌之川集落の地図で、滝前と書かれたあたりにあった家跡。

 

電柱?が立っていたのだろうか。周りに石を積み上げてからセメントを流して固定してあった。電柱と思われる物は石積みのすぐ上でカットされていた。

谷に下りて行った。

谷川から風呂があった所あたりを見てみた。

 

何本かのツタが縄をなうように絡んで、目の前にぶら下がっていた。

 

潰れた家跡。

 

茶釜がころがっていた。

 

皮が剥がれた木。枯れているようだ。

猪の沼田場のようだ。

水を貯め過槽する水槽。石垣の高いところに据え付けている。

 

ここは風呂があった場所のようだ。タイル張りのしゃれた風呂だったようだ。

その横に五右衛門風呂が転がっている。

時間が経つのは早い。そろそろ昼下がり。帰るにも時間がかかるし山中は暗くなるのが早ので、今日はこのくらいでと、ゆっくり帰りはじめた。

 

この道を上がって行き、まっすぐどんどん歩いて行けば、石貝や土場の石鎚小学校跡に通じている。1度だけ数年前に通ったが、石貝を通り抜け小学校跡まで辿り着くのには難儀した。

 

石橋

 

又谷川に出た。谷を渡り対岸にある道を下りていった。

下りいくと、横峰寺から虎杖集落に下りていく道に出くわした。

今回は下りて行かず、上って行き郷集落を通り抜けて又星ヶ森峠まで行く(金の鳥居)計画。しんどいがゆっくりと登って行った。この坂を上って行く途中には、遍路や石鎚山の信者たちにとっては難所で有名だった「郷のもえ坂」というところが待ってくれている。

遍路道と書いた道標が木にぶら下がっていた。

上って行く途中の道、猪がそこらじゅうをほじくり返している。

かなり大きな猪の仕業のようだ。

 

 

T字路に出た。道標が立っている。左に行くようだ。右に曲がっていくはっきりとしたも道もあるが、どこに続くるのだろう?

郷集落を休みながらゆっくりと通り抜けていった。

長い石垣が見えてきた。郷のお堂近くまで帰ってきたようだ。

 

やっとお堂まで帰ってきた。星ヶ森峠までもうちょっと!

 

 

途中で何度も立ち止まったり休憩しながらも、やっと峠に着いた。もう四時を過ぎている。太陽は傾きはじめ、柔らかくなった斜光線が石鎚を優しく照らしている。冷たい冬風が通り抜けていく標高800㍍の星ヶ森峠だが、坂道を登ってきたので、体は十分に温かい。今日は行きも帰りも星ヶ森峠から石鎚を見れたので、満足。