石鎚村の大成へ | ア-ルの写真記

ア-ルの写真記

四国の山間(主に石鎚山系)で「人と自然」をテーマに
写真を撮ってます。
写真は記録!
旅は人生の肥やし!

(日本写真家協会 会員)
(ブログ内画像の無断使用、転載は遠慮ください)

上空から地上を写真で見るグーグルMAPで石鎚山系山間集落をよく覗いている。

谷川に架かる10㍍足らずの丸太橋などもハッキリと見え、以前にも増して写真の解像度は良くなったように思う。

石鎚山系にある高瀑渓谷へ行く林道や、その周辺を俯瞰していたとき、緑色でも色違いの紙を何枚も細かくちぎり、ベタベタ貼ったちぎり絵のように見える森の中に、一ヶ所だけ茶色で四角形のような物があるのを見つけた。

何だろうと拡大してよく見ると、どうも建物の屋根のようだ。

これまでにも、近くまで車で何回か行ったけど、この森の中までは入って行かなかった。

グーグルMAPや現在の国土地理院地図などを見ると、このあたりは「大成」という地名なっている。

大成という地域には、戦国の時代、峠を越えて来て住み着いたといういい伝えが残る大平集落と成薮集落があり、昭和の時代まで人が暮らしていた。

しかしながら、大平集落と成薮集落は無住になって久しく、ふたつの集落名の頭文字を一字ずつとり、かつてあったふたつの集落はまとめて、いつのまにか「大成」と記される。

 

地図で見た、茶色い屋根のような物がある場所に行ってみたくなった。

車で走行可能なところまで行き、駐車出来そうな場所に車を駐めてから歩いた。

高瀑渓谷に行く未舗装の道は、現在高瀑渓谷に入る手前から路肩などが崩れ落ちている所が何カ所かあり、通行禁止の看板が立ち侵入禁止のテープが道をふさいでいた。

 

御来迎橋から上流を眺めると大きな石が谷川に転んでいるのが目立つ。

 

車を広い空き地に駐めて髙瀑(たかたる)に続く林道歩き始めた。

前方に大きな石というか岩が山上から道に崩れ落ちている。

人の素手で動かすのは大きすぎて無理みたい。

 

 

切り立った山肌に作った林道の谷側の縁に大穴が開いている。

道下の岩や土砂が大雨などで地盤が緩み、谷に崩れ落ちていったようだ。

すでに数年前から小さな穴が谷側の方に空いていたが、まだその時は車で通行可能だった。

今回は前回よりさらに大きな穴になっていた。

もうこの横を車で通るのはしばらく無理のようだ。

 

 

道の縁に古そうな木像が石台の上に乗っかっていた。

胴と頭は別々に造り、くっつけてあるようだ。

石台に「忠治」と文字が彫ってある。名前の横にも字が彫ってあるようだが「成」という文字?ともう一字あるが、??。

集落名の「成薮」と刻んでいるのだろうか?

 

岩の上に木が生えている。

岩を覆い被さっていた土が崩れ落ちているのでわかる。

 

 

大雨が降れば水が流れ落ちてくるような沢。

倒木が多い。

岩が多いので根を十分に地中深く張り巡らすことが出来ないのかも。

 

御来光滝の下流に架かる橋。

紅葉シーズンに来た時は補修されきれいだったのに。

 

大雨で谷が氾濫したときは、橋の上も浸水し倒木などが流れ、邪魔になる物をなぎ倒していくのだろう。

欄干はズタズタになっている。

 

ブロック壁が谷に向かってずれ落ちている。

谷は深いし、復旧するにしても難工事だろう。

しかも山奥にあるし、費用も高くつくだろうと思う。

山肌を切り開き造った道上の斜面に生える樹。

風雨で浸食を繰り返し、少しずつ土が流れ落ちていき根がむきだしになっている。

 

 

人面岩?

 

林道の上に大きな岩が見えてきた。

この真下にいると、今にも落ちて来そうで怖い。

さっさと早足で通り抜けた。

ここも大雨が降れば岩の下や回りの柔らかそうな土がジワジワ浸食され、岩は崩れ谷底まで一気に落ちていきそうだ。

そんな事が起こる日は、そう遠い将来ではないような気がする。

 

足下にも十分気を配りながらも、辺りの景色を楽しみながら傷んだ林道をゆっくり歩いて行った。

グーグルMAPで見た場所、「ここら辺りから入るのが良いのかな」と思うところを見つけ林道を逸れて森の中へ入って行った。

けつまげて転ばないようにと、足下見ながら通りやすい所を探しながら行った。

若い時と違い、とろくさくなっているし、筋力はかなり衰えている。

年寄りに油断は禁物だ。

杉の枝や葉が落ち一帯を覆い、茶色の地面が広がる。

集落内を走る古道があるのだろうが、落ち葉などで隠れていてわかりづらい。

 

誰かが石を集めておいたような跡があった。

 

緩やかな傾斜を上がって行く。

上がっていくと、石を積んである所や、石垣が見えてきた。

前に見える杉の林は山を下りる時に植林したのだろう。

 

 

石段もある。

 

大きな石や小さな石を混ぜ積み上げた石垣。

きれいに積んであった。

 

 

昔は畑だっただろうと思うなだらかな場所に、野球のボールのように丸いデッカイ岩がある。

直径1.5㍍はありそう。

なんでこんな所に丸い岩がと思う。

転げ落ちて行かないように、大石のしたには石をかましてあった。

高く積まれた石垣の上に行くと、さらに山上に長く積まれた石垣があり屋敷も見えてきた。

大きな屋敷が2棟連なってある。

屋根はトタン屋根で、地図で見た家のようだ。

 

横に広く積み上げられた石垣上の高台に家が並んであるようだ。

 

歩いてきた方をふり返り辺りを見てみる。

このあたりの杉林、枝打ちはある程度なされているみたい。

石段が続いていて上がって行くと、城壁を思わせるような長くて高く積まれた石垣が森の中に広がっている。

その真ん中あたりに入って行く石段がある。

 

 

階段を上がりきった正面に大きく成長した木が生えている。

何かお城の中に入っていく気分!

 

大きな石をきれいに積み上げた石垣はお城の石垣のように美しい。

素人ではこんなにうまくは無理だろう?

石工が積んだのだろう?

 

地図で見た場所に到着。

 

長い煙突が見える。

 

 

家は二階建てで、しゃれたバルコニーがある。

ここから見る四季それぞれの眺めは素晴らしかっただろうと思う。

 

1975年製(昭和50年)の電力量計が柱に掛かっていた。

 

古い愛媛新聞が窓ぎわにあった。

昭和45年3月16日の新聞だ。

 

窓は開いていて、おくどさんとその上に錆び付いた羽釜があるのが外から見えた。

 

廃屋を後にして山上の石垣のある方に行ってみた。

平坦な地が広がっている。

このあたり一面も畑だったのだろう。

 

山に行くと蔦が他の木に絡まる景色にいつも遭遇する。

ツタが絡まって造リだす様々な形は見ていて面白い。

頭脳を持たない植物が幾何学的な絡まりをして美しい造形を造り出す。

不思議に思う。

まるで造形作家のようだ。

 

今までにも何度かこのあたりに来ていて、地元の人が野灯(やとう)と呼ぶ石鎚村特有?の石灯籠がこの集落跡にも残っているのは知っている。せっかくここまで来たらのだから、ちょっと足をのばして見て帰ろう、と行った。

石積みの上にはもともと火袋があったはずで、倒れ落ちてないかと、来るたびに周辺をあちこちうろちょろしながら見るが、やはりないようだ。

野灯横を往還が走っている。

 

緩やかな下り坂が続いているようだ。

どこまで続いているのか今回は時間があるので古道を辿って行ってみた。

 

小さな谷に出くわした。

道はここまでで途切れている。

古道は対岸に続いていると思うが、、。

ここから対岸あたりを見るが、あっただろうとおもう古道も崩れたか、はっきりわからない。

おそらく昔は、丸太を束ねたような簡単な橋が架かっていて、この先も道は延々と続いていただろう。

隣の民家や高瀑方面、そして山を越えて旧桜樹村横海(よこがい)に行く道などに続いていたと思う。

 

 

野灯横を通る反対方向に行く古道は、少し行くとほぼ90度、右に曲がって行く道が続いている。

川下にある集落などに向かって行く往還のようだ。

曲がらずまっすぐいくと石段が続き、上がって行くと集落内を走る林道に出た。

 

 

 

石段

 

家紋が彫られた比較的に新しい墓石の一部が転げていた。

墓を下に移転したのだろう。

 

石積みで囲まれた石室の中に石像があるが、頭上にある屋根部分が崩れかけになっている。

林道を下り帰りはじめる。

 

 

道脇にある六地蔵を守る屋根が倒れかけていた。

ここの六地蔵は比較的新しい。

頻繁に起こる災害で流されてしまい、かつて住民が新調したのだろう。

 

林の中を飛ぶようにして移動するムササビを久しぶりに見た。

とっさの出来事。

しかも逃げるのが速かったので、一枚しかカメラで捉える事ができなかった。

それでも逃げ足の速いムササビを撮れただけでもよかった。

 

「石鎚村(千足山村)で一番のお金持ちは成藪の人だった」と何かに書いてあったのを見た記憶がある。

訪れた石垣と家を見て、ここのお家の事ではないかと、ふと思った。

第一次産業の林業が栄えた時代、山を持つ人たちや山に住んだ人たちの中には大いに潤った人が多くいたという。

石鎚村よりも川下に位置するかつての大保木村での話だが、山を持ち林業を生業としたある人は、自身の還暦記念祝いの時、西条市内からおおぜいの芸者さんたちも呼びよせ盛大に宴会をおこなった、という話を聞いたことがある。

大成よりさらに山奥にある城師という所に戦前営林署が昔あった。

YT氏の父親がその建物の払い下げを受け、近くにたくさんあったブナなどの木を加工し、レールの下に敷く枕木や織物機械の糸巻きに使う芯を製造する作業場にした。

出来た製品は大阪方面に送っていたという。

戦争が終わる2~3年前まで続いた。と幼い頃城師に住んでいだYT氏からきいた。

TY氏は石鎚村(千足山村)のことを書いた本「秘境 石鎚山麓 消えた村に光を」の著者でもある。