石鎚参拝道の今宮集落  | ア-ルの写真記

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(日本写真家協会 会員)

 

                            河口の今宮道登山口

 

 

霊峰石鎚山へ行く参拝道、今宮道と黒川道は藩政時代すでにあり、表参道として重要な役割を果たした。

石鎚登山ロープウェイ(1968年完成)や石鎚スカイライン(1970年完成)が開通するまで、日帰りで石鎚に行って帰ることは難しかった。なので両登山道は、古くから互いに切磋琢磨しながら発展していき、登山道脇にはそれぞれ20軒程の季節宿があり、お山開き期間中は寝る時間もないほど忙しく働き、大変な賑わいをみせた時代があったという。

しかしながら、ロープウェイや石鎚スカイラインが完成するや、徒歩で行く今宮、黒川集落を通り抜けていく参拝者は激減した。

季節宿は廃業し住人は山をおりはじめ、両集落とも廃集落となった。

今宮道は今も通行可能で、歩き登山者を時々見るが、黒川道は登る途中で出くわす谷脇にある道の崩壊で、一般の登山者にとっては危険で、今は通行止めの看板が登り口に立っている。

県道12号を石鎚登山ロープウェイ方面に向かって行き、三碧橋を渡るとすぐ河口(こうぐち)というバス停がある。

そこは合併前の西条市と小松町の丁度境界あたりで、石鎚山に上がっていく今宮道の登山口がある。

以前の今宮道登山口は、現在の場所よりも登山ロープウエイ方面に少し行った場所にあったが、登山客により便利なようにと、バス停が完成するや登山口をバス停近くに付け替えたようだ。

登山道や登山口、登る手段も時代とともに変化をしていくようだ。

 

河口の三碧峡という峡谷に三碧橋が完成したのは昭和42年。

それまでバスは、大正12年完成の幅狭い河口橋と素掘りのトンネルを通り、河口に来ていた。

三碧橋から上流をのぞむと、橋の上に雑木が繁茂する河口橋がまだ残っている。

今宮道を登りはじめてすぐ、「敬神、愛國」の文字が刻まれた高さ4~5㍍ほどの石柱が両脇に立ち、石柱を据えた時代の世相を反映していた。

その奥に鳥居が立っている。

 

 

少し進むと『丸八先祖、お山案内』の文字が刻まれた高さ50~60㌢ほどの碑が参道脇にあった。

昔、丸八旅館さんが置いたものだろう。

 

そこを通り過ぎ上がっていくと、三椏の花が咲いていた。

 

 

どんどん上がっていくと今宮集落跡に。

いくつかお宿が見えてきた。

ここは季節宿だった丸一屋さん。

大きなお宿だったようだ。

 

丸一屋より少し下がった場所にもお家がある。

ここも季節宿で、入口屋さんだろう。

今にも崩れそうになっている。

 

 

 

今宮集落は昭和22年に35戸(うち季節宿をしていたのは14戸ほど)170人ほどの人たちが住み、賑やかな集落であったという。

しかし、ロープウエイの開通で集落の人口は急減した。

最後まで残った住民も、昭和58年ごろ山をおり、とうとう廃集落となった。

 

今宮の高嶺(たかね)小学校今宮分校跡。

明治44年4月に開校し昭和47年3月閉校になった。

 

 

小学校校舎入り口の壁に、マジックで書いた陳情書が残っている。

 

陳情者の名前が連名で書いてある。

 

今宮小学校の土地の貸借契約の文書が壁に書いてある。

当時の大保木村の村長は伊藤一氏で、後に西条市長も歴任された。

元西条市長 伊藤宏太郎氏の父にあたる。

 

校庭の端に教員住宅跡が残る。

 

校庭にある卒業記念碑

 

横面には、昭和三十四年とセメント製の碑に刻まれている。

 

山上に行く石橋

 

 

石橋を渡って上がっていくと家が見えてきた。

写真の建物はもう倒れかけだが、季節宿の新屋か?  

 

これは季節宿の大黒屋なのだろうか?

 

 

この建物は、有名な丸八旅館跡。

入り口に門があり、丸八の看板が掛かっていたというので、どんな看板かか見てみたくて探しに行った。

門はすでに倒れていて、探したが確認できなかった。

この建物の向こうにも茅葺きの丸八の別館があったようだが、完全に潰れてしまっている。

丸八旅館を営んでいたこのお家の初代八郎兵衛は、石鎚信仰の草分け的な人で、石鎚山を開山したといわれる役行者を背負って石鎚山に登った人物、という伝承が残る。

丸八旅館には、かつて三体の丸八権現像があり、それを目当てに宿泊しに来る参拝者も多くいたという。

今宮は廃集落となり、丸八旅館にあった丸八権現像は石鎚ロープウエイ山頂近くの奥前神寺に鎮座していると聞いた。

 

 

丸ハ旅館敷地跡に、屋敷とは少し離れたところに風呂場が残っている。

五右衛門風呂だ。

植林した木が太り、周囲を覆ってしまっていて、今は遠くの景色を見渡すことが出来ないが、

風呂に入り、山旅で疲れた体を癒やしながら見る山並みの風景は、絶景だったに違いない。

 

丸八旅館跡にレンガ造りの壊れたおくどさんが残っていた。

お釜が二つ傾きながらも残っている。

お山開きの時は、左側の釜で一斗五升の 飯を炊き、右側の釜でお茶を沸かして宿泊客にだしていた、と今宮に住んだM婦人が懐かしそうに壊れたおくどさんの横で話してくれた。

M婦人の祖母はこの丸八から嫁いできたという。

 

下から見上げる丸八。

 

 

季節宿

まだきれいな形で建っていた。 

 

鉄製の鳥居がある。「源氏の神様」を祀ってあるという。

源氏の神さんとは何だろうと、昔近くに住んでいたM氏に尋ねたが知らないようだった。

知る人がいれば尋ねてみたいが、、、。

 

高い石垣があり、その上に家があった。

そこも季節宿を営んでいたようだ。

石垣横を石鎚に行く参拝道、今宮道が通る。

筒状長いものは排水路のようだ。

 

石鎚登山道の今宮道脇に、六地蔵を横に倒し並べた状態であった。

昔は登山道脇に並んで立っていたのだろうが。

六地蔵があるあたりから石鎚山は見えない。

 

途中登山道から遠くを望むと、右に瓶ヶ森が見える。

その手前左の高い山は二ノ岳。

 

季節宿が点々とあった今宮集落を通り抜けると、植林された木々が立ち並び、うす暗い林の中の山道を上がって行く。

このあたりは植林地帯だが、見渡すかぎり下草はほとんどはえてないみたいだ。

杉の枝が落ちて枯れ、赤くなった地面が広がっている。

辺り一帯は鳥の声さえ聞こえず静まりかえり、寝静まった森のよう。

 

大きくてめだつ杉の木が見えてきた。

今宮の大杉 別名 「乳杉」ともいう。

高さ30㍍ともいわれ樹齢は800年以上と聞いた。

今は杉の木の周りに枝が長く伸びているが、昔は女性のオッパイのようにコブになってふくらんでいたそうだ。

乳の出ない母親がこの杉の皮を煎じて飲めば乳がでだすといわれ、この皮をはがして持って帰る人がおおぜいいたという。

あまりにも皮をはがす人が多くて、一時期この木が弱ったという。

皮をはがされないようにと、周りに柵を設けたりしたそうだ。

この乳杉があるあたりはかつては見晴らしがよく、お山開きの時期は飴湯などを売る店があり、一休みして行く人は多かったようだ。

 

乳杉の近くに立つ寄付者の石碑

 

今宮の氏神、三倍神社跡があるというので探した。

正面にあった社はもう潰れてしまっていた。

丸八の初代、八郎兵衛の霊もこの三倍神社に祭られていた。

今宮が廃集落になってしまうとき、三倍神社は石鎚神社境内に移され祭られている。

 

境内の左側に赤い小さな鳥居が建っている。

 

参道に建つ寄付者の名が刻まれた石碑群

 

三倍神社跡を望む。

 

集落内の道

 

石垣と石段。石段を上がればこの上にも季節宿があった。