旧本川村 寺川 | ア-ルの写真記

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(日本写真家協会 会員)

愛媛県西条市周桑平野(道前平野)の北側に瀬戸内海に面した小高い山がある。

その山上に休暇村瀬戸内東予という保養施設が建っている。

ここから、西日本最高峰の石鎚山を中心にして東西に連なる石鎚山系の山々が一望できる。

その眺望はすばらしい、と見るたびに思う。

下の写真画面右側の高いところあたりが石鎚山(1982m)で画面左側の高い所が瓶ヶ森山(1897m)になる。

石鎚山系山並みの向こう側は、おおよそ左半分は高知県、右半分は愛媛の久万高原町方面だ。

左側に見える瓶ヶ森山の稜線を右に下って行き一番低くなった所あたりの山の向こう側に高知県いの町(旧本川村)の寺川集落がある。

車道が整うまで、山懐にある寺川は、高知県内でも交通不便でへんぴな場所のひとつだった。

寺川という地名は、高校に入ってから行きはじめた瓶ヶ森~石鎚縦走登山途中にある道標や地図などに記されていて知っていたが、寺川集落を訪れたのは、その後40年ほど経ってからだった。

新寒風山トンネルの開通、瓶ヶ森林道(UFOライン)や高知の県道40号線(石鎚公園線)の開通、そして全道舗装化がされていき、山間の道路状況は昔と比べると見違えるほど良くなった。

今は車の座席に座り、ハンドルを握りアクセルさえ踏めば、汗もかかず快適に寺川まで日帰りで行ける時代だ。

ほんとうに交通便利な世の中になった。

                     休暇村 瀬戸内東予から遠望

 

石鎚本教が中心になり執り仕切る石鎚山のお山開きは毎年7月1日~10日までの10日間おこなわれ、西日本各地から信者たちが参集し賑わいをみせることで有名だが、瓶ヶ森でも石鎚山ほど盛大ではないが石中寺が中心となり、毎年信者達が白装束姿で訪れ、お山開きがおこなわれている。かつては、先達に導かれ九州や中四国地方などから来た信者たちは、西条市の西之川から徒歩で急峻な登山道を何時間もかけて登り、子持権現や瓶ヶ森を目指した時代があった。

しかしながら、瓶ヶ森まで行く車道が開通すると、急峻な坂道のある長い道のりをわざわざ歩いて登る信者は少なくなった。

人は一度楽する味を覚えると、なかなか元に戻れない動物のようだ。

学生時代や二十歳代の頃は、夏山シーズンが来ると度々西之川から歩いて瓶ヶ森に登った。

行く途中、登りきった稜線に常住という所があり、そこでいつも決まったように持ってきた弁当を食べ、一休みもした。

その後は、大木が茂り陽当たりは良くないが、なだらかな道を鳥越峠までは、ほとんど休まずにたいていは行った。

やっと鳥越に着くや腰をおろし、登山服の胸ボタンを外し体に風を通した。

峠を越えて下りて行く涼風は、汗を拭き取るように吹いてくれて、疲れた体をいつも労ってくれた。

峠をまたがるように座り、子持ち権現を仰ぎ見ながら水分補給する休憩は、すごく心地よい時間だったと、懐かしく思う。

一休みをする鳥越峠から子持ち権現方面に向かってホンガケという山道があった。

ホンガケ道へ下りて行く入口に○○権現と書いたのぼり旗が竹棹に垂らし何本か立っていたのを覚えている。

信者の道案内の目印と、祭りの賑わいを少しでも演出するためにと、立てたのだろう。

今は子持権現に行くホンガケ道や鎖場は経年の劣化で傷みがはげしく、一般の人が通るのは危ないと聞いた。

昔は子持権現の鎖場を登る人や、頂上に立ち祈りを捧げる白装束姿の人たちを縦走登山途中でよく見かけたものだが。

 

四国三郎の異名を持つ吉野川の源流は、この瓶ヶ森付近を源流とするようだ。

UFOラインの瓶ヶ森近くを車で走っていると、途中『吉野川源流』と刻まれた石碑前を通る。

その下あたりから吉野川は始まっているようだ。

 

子持権現(1677m)

 

 

瓶ヶ森林道が開通すると、標高1400㍍ほどのしらさ峠付近に、本川村村営(現いの町)の宿泊施設「山荘しらさ」がオープンした。

町村合併後は指定管理者が営業していたようだが、地震対策などで大規模な改修が必要となり休業中のようで、改修オープンは2020年以降を予定しているとのことだ。

この山荘しらさ裏側の下方に、雨風をしのぐ程度の簡単な造りの避難小屋が古くからあって、縦走途中何回かそこで休憩したのを覚えている。

今そこの避難小屋は立派な建物に変わっていて驚いた。

 

瓶ヶ森と土小屋を結ぶ尾根を走るUFOラインから、高知の寺川方面を望む。

山並みが幾重にも重なっているが、そのはるか向こうに太平洋があるはず。

 

 

いの町長沢から予佐越峠に行く県道40号線を走り越裏門集落を越えて行くと、途中に右にそれ山手に行く道がある。

そこをどんどん上がって行くと寺川集落に着く。

寺川集落は戦時中20軒足らずの家があったというが、今は約半分の軒数のようだ。

 

車道のない時代、寺川や旧池川町あたりから1400㍍ほどもあるシラサ峠や名野川峠を越え愛媛県西条市西之川(現在の住所)に、生活物資を買いに来たり行商等で来る人が結構いたという。

また西之川では定期的に物物交換の市が開催していたともいう。

 

急峻な山間にある西之川や東之川集落は平地が少なく、人口の割には耕作面積が少なすぎた時代があった。

そのため、村の人たちは名古瀬谷からハト谷を通り上って行き、愛媛と高知県境のシラサ峠を越えて、にのわれという所まで3時間ほどかけて歩いて行き、焼畑耕作をしていた。

そこでは、ひえやトウキビ、小豆などを収穫し、小豆は現金に換えていたという。

毎日、何時間も歩き農作業に行くのは大変で、にのわれを下りて行った寺川の白猪谷という所にセカンドハウス(小屋)を建てて、寝泊まりしながら戦前戦後は農作業をしていたという。

「西之川の藤原ヨヘイ、伊藤イワタロウという人も、かつては白猪谷に小屋を建て焼き畑をしていた」と西之川に住んだ知人が昔のことを懐かしく話してくれた。

 

応永元年(1394年)川村道徳という人が松山から西条の大保木に来て住み、応永32年(1425年)に寺川に行き定住した、云々と刻んだ碑文が寺川にあった。

石鎚山や瓶ヶ森など、石鎚山系の山々に登ったり縦走したりする山道について、あまり深く考えたことはなかったが、登山者のための道だと軽く思っていた。

古い地図を見ていると、山間には網の目のように道があるようだが、人が物資を運んだり移動したりと、遠い昔からある生活道だったということを、後に知った。

 

寺川集落 前方左側の白い屋根はかつての寺川小学校跡。

現在は老人憩いの家の看板が掛かっている。

寺川には9軒の家に人が住んでいる(2019.08.22現在)と寺川の人が話してくれた。

大きく伸びた樹木の陰に、人が住まなくなって久しい廃屋が集落を歩くと何軒も見え隠れする。

このあたりの標高は700㍍前後くらい。

 

 

小学校跡に「寺川小学校碑」と刻まれた石碑が入り口にある。

1978年に越裏門小学校と統合している。

隣集落にあった越裏門小学校も現在は閉校になっている。

 

寺川小学校跡は現在憩いの家となっている。

 

 

 

室町時代、地蔵菩薩を祀る峯泉寺と呼ばれた地蔵堂が寺川の小学校敷地跡あたりにあったという。

学校の体育施設を建設のため整地をしていたとき、室町時代の文安3年(1446年)に存在した寺跡から、鰐口(仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種)が見つかった。

宝泉寺跡に大きな石碑が立っている。

 

 

県道40号線を車で走っていると寺川あたりの道脇に大きな建物がある。

一見して旅館のように見えたが、住人に尋ねると営林署の建物だという。

一階が事務所で、二階は出張できた職員さん(えらいさん)たちの宿泊所になっていた。

 

 

寺川の名物のひとつ、大瀧(オオタビ)の滝。

その前にはゆっくりと腰掛けて見える展望台がある。

寒い冬の氷瀑は絶景らしい。

 

 

 

いの町の寺川より川下にある集落、越裏門の越裏門小学校(2002年廃校)前の橋上から撮った谷川で、吉野川の上流になる。

吉野川上流にあたる高知の本川地方は、藩政時代からヒノキやモミなどの良材が採れることで有名で、御用木として幕府に献上する木を産出する藩有林が多かったという。

明治時期には山の中腹から上が国有林となり古木の伐採や植林が盛んに行われ、長沢や越裏門から寺川にいたる谷沿いに森林軌道が敷設され、木炭生産も盛んで昭和の30年代ごろまでは、林業の村として大いに栄えた時期があったようだ

戦前の日本の山間地域は、山々に点在した大~小規模の鉱山や木材の産出、炭焼き生産、その他諸々の林産物生産などで賑わいをみせ、栄えた地域がこの地に限らず多かったようだ。

しかしながら、戦後は鉱山の閉山や林業の衰退などで、次第に働き場所が減少していった。

今日、日本は少子高齢、人口減少の問題が少しずつ顕在化してきているが、それ以上に全国ほとんどの山間部は高齢過疎化、限界集落化、廃集落などと「山にひとがいなくなる」という問題が起こっている。

この問題は深刻だと思う。

 

 

藩政時代、土佐寺川辺りの山一帯は、ほとんどがお留山(藩有林)で、そこにはたくさんの良材があった。

その良材を狙って、伊予から山を越え盗伐に来る者が絶えなかったという。

そのため、土佐藩は見張り役の詰所として寺川に番屋を置き、武士の松本直吉らに寺川に行き盗伐を取り締まるように命じた。

ある時、松本尚吉は盗伐しているところを見つけ捕まえようとしたが、逆に殺されてしまった。

その直吉の墓が寺川にあり、今も村人によって祀られている。

明治に入っても盗伐はやまず、度々あったようで、役人が襲われることもあったという。

そのくらい土佐の山深いこの地方には良材のある原生林が残っていた。

 

                                         松本直吉の墓

 

 

11月の朝夕冷え込む寺川の紅葉はきれいだった。

 

 

寺川の白髪神社

 

 

国の重要無形民俗文化財に指定されている本川神楽が、室町時代に石鎚山系の山々に行き来する伊勢の太夫達によって伝えられた。最初に伝わった地域は本川地方の中の川という地域だといわれている。

その後、しだいに本川地方一帯に伝わって行き、各地で盛んに舞われるようになっていった。

10年程前までは、10ヶ所ほどの神社で夜に神楽が奉納されていたが、近年は地区内数カ所の神社で奉納されるのみとなっている。

高齢過疎化が主な原因のようだ。

 

本川神楽が寺川の白髪神社で奉納された。

 

祭りの神楽奉納では、村の女性たちがご馳走を作り、人々をもてなす。
寺川の田楽に使う寺川産ジャガイモは絶品と聞いた。

この日のジャガイモはあいにく手に入らなかったのか寺川産ではないと聞いた。

それにしてもおいしかった。

又、田楽に使うちょっと硬めのいの町産豆腐も美味だった。

以来ちょっと硬めの豆腐が好きになり、いの町で造られる硬めの豆腐は近くの店でも売られているので、よく食べるようになった。

 

 

 

 

本川神楽は夜に行われる夜神楽で、昔は今よりももっと遅くまで舞が続いたという。

白髪神社は谷間に沿って瓶ヶ森からの冷気が静かに流れ落ちて来る場所にあり、しかも標高は700㍍ほどもある。

11月中旬の寺川の夜は冷え込んだ。

境内では、お世話人や村人そして見物人たちが暖をとるため、神楽が終わるまで太くて大きい薪が焚かれ続ける。


いの町の長沢にある本川新郷土館に『石鈇山』と書かれた古い会符があるのを見つけた。

愛媛の石鎚神社は明治35年以降は石山を石鎚山と書くように改めているという。

石鈇山と書いてあるので、それより古いものだろうか。

石鎚山のかつて別当寺であった石鉄山 前神寺は今も多くの石鎚山の信者を擁するという。

山号は石山となっている。

前神寺の会符は今はどのような文字で書いているのだろうか?

ちなみに石鎚山系瓶ヶ森を拝する信者さんの中には瓶ヶ森を石土山(いしづちさん)という人もいる。

 

古い時代、石鎚や瓶ヶ森を目指した信者や修験者たちは、はるばる海を渡り、また他藩からもやって来ては寺川など本川地方あたりを通り、往来していたようだ。

 

 

 

1752年に土佐藩の山まわり役人であった春木二郎八繁則が書いた寺川郷談という本が、長沢の本川新郷土館に陳列してある。

繁則が寺川地方に一年間ほど赴任していた間に、寺川の日常生活の様子などを書き留めた日記のような古文書という。

 

長沢の本川新郷土館近くにある、いの町本川支所(旧本川村役場)前に建つ『閉村の碑』

 

『閉村の碑』を読み返しながらしばらく釘付けになった。

石鎚山系山懐の本川地方にあった急峻で狭い山道を、先人たちは歩き続け、行き来する姿や賑やかだった時代の情景が、頭の中で動画のように映る。

山懐の大自然の中で、先人たちは自然の脅威や自然の恵みと向き合いながらも、神仏に寄り添い悠悠自適に暮らし続ける。

当時としてはごくあたりまえの生き方だっただろうが、力強く生きた先人たちの姿が伝わってくる。

そして、閉村に対する無念の思いも。