クラブ「アフロディーテ」の
華やかな照明が、
梅澤美波の顔に
不自然な影を落としていた。
白石麻衣の鋭い観察眼は、
ここ数日の後輩の些細な
変化を見逃さなかった。
客と話す笑顔の裏に潜む怯え、
ふとした瞬間に周囲をうかがう視線、
そして、帰りの支度をする際の、
微かな手の震え。
閉店後、麻衣は美波を引き止め、
努めて優しく声をかけた。
「美波ちゃん、何かあった?
最近、少し無理してるように
見えるけど」
その一言で、
美波が懸命に張っていた糸が
ぷつりと切れた。
大きな瞳にみるみる涙が溜まり、
ぽつり、ぽつりと常連客の一人から
執拗な連絡や待ち伏せといった
ストーカー行為を受けていることを
打ち明けた。
「警察には…」
「一度相談したんですけど、
直接何かされたわけじゃないからって…」
俯く美波の姿に、
麻衣の胸の奥で冷たい怒りが
燃え上がった。
自分の知らないところで、
この純粋な子が恐怖に晒されていたのだ。
そして、法という「表」のルールが
彼女を守りきれない
現実を改めて突きつけられる。
自分の手で排除するのはたやすい。
だが、それは美波を「こちら側」の
世界に引きずり込むことと同義だ。
逡巡の末、麻衣は一つの決断を下し、
バックヤードで静かにスマートフォンを取り出した。
コール音は2回だけだった。
『…何?』
電話の向こうから、
平手友梨奈の感情の読めない声が
聞こえる。
「友梨奈、仕事よ。
急ぎでお願いしたいことがある」
その日の夜、
美波がマンションのエントランスに
差し掛かった時、
恐怖は現実の姿となって現れた。
物陰からぬっと現れた男が、
狂的な笑みを浮かべて
彼女の腕を掴んだのだ。
「やっと二人きりになれたね、
美波ちゃん」
「やっ…!離してください!」
悲鳴は、男の分厚い手で塞がれた。
抵抗する美波を力ずくで引きずろうとした、
その瞬間。
世界が、反転した。
男の背後から現れた黒い影
――平手友梨奈が、
音もなく男の腕を逆方向に捻り上げる。
ゴキリ、と骨が軋む鈍い音が響き、
男の口から悲鳴にならない呼気が漏れた。
友梨奈は一切の躊躇なく、
男の顔面に肘を叩き込み、
腹部に容赦のない膝蹴りを数発、
続け様に叩き込んだ。
それは「制圧」などという
生易しいものではなく、
ただ、徹底的に破壊するだけの暴力だった。
男がぐったりと地面に崩れ落ちても、
友梨奈は感情の宿らない瞳で
その姿を冷たく見下ろし、
意識を失う寸前まで殴打を続けた。
恐怖で声も出せず、
その場にへたり込む美波。
彼女を襲ったストーカーへの恐怖と、
今目の前で繰り広げられた圧倒的な
暴力への恐怖が入り混じり、
ただ震えることしかできなかった。
友梨奈は返り血が付いたかもしれない
拳を無造作に振るうと、
美波の前に立ち、
外部からの脅威を遮断する壁のように、
静かに佇んだ。
それから10分後。
タクシーを飛ばして駆け付けた
麻衣が見たものは、
アスファルトに醜く伸びる男の姿と、
その傍らで全てを終わらせた
獣のように静かに立つ友梨奈、
そして壁際に座り込み、
恐怖に凍り付いている美波の姿だった。
「…友梨奈」
「…終わったよ、麻衣さん」
友梨奈の短い報告が、
夜の空気に重く響く。
麻衣は、震える美波の肩に
そっとコートをかけた。
美波は弾かれたように麻衣の顔を見上げ、
その瞳にはストーカーへの恐怖とは別の、
未知のものに対する怯えが浮かんでいた。
玲奈の言葉が、麻衣の脳裏に蘇る。
『その子が、あなたと一緒にいることで、
あなたが守りたいと思ってる
日常から遠ざかっちまう危険性も、
忘れないでね』
守りたかったはずの日常が、
まさに今、自分の世界の暴力によって
目の前で歪んでいく。
麻衣は、
唇を強く噛みしめることしかできなかった。