
さて、前編では
社会貢献ブームやら、社会起業家やら
ファクトの紹介ばかりにとどまりまってしまいましたが...
ようやく本題の
「なぜ若者は社会貢献をしたがるのか」ということについて
そしてその前段の
「なぜ若者は社会起業家に憧れるのか」ということについて
僕なりの考えを述べていきたいと思います。
"あの雑誌"と社会起業家との関連性

僕はこの社会起業家、ある意味"あの雑誌"にとても関連性があると思っています。
"あの雑誌"とかいってますが、タイトルにもある通り...
そう、週刊少年ジャンプです。

知らない人はいませんよね。
僕は本当にもうシャンプっ子で、中二からほぼ毎週欠かさず買って読んでますが(笑)...
とにかくそんなんだから、売上げは他誌とは歴然の差。

イマドキの男の子で、ジャンプもしくは掲載作品のいずれかを読んだことがない!
なんて子、いますか?
ワンピース、ブリーチ、ナルト...
これらの作品に出会わずして生きる方が逆に難しい気さえします。笑
男の子なら例外なく、これらの作品に心奪われ没頭する。
こんな壮大な物語の中で、かっこよく活躍できたらなぁ...と思うわけです。
そしてそこに、ヒントがあるのではないでしょうか。
ワンピースなら、ルフィ。
ブリーチなら、一護。
そしてナルトなら、当然ナルト。
これら3人の主人公に、そしてこれら3作品に共通していえることはなんでしょうか?
だいたいの誤差はあるにせよ、
「圧倒的不利(もしくは上には上がいる)な状況から、努力と友情を積み重ねて逆境に打ち勝つヒーローの物語」
ということができるのではないでしょうか。
そしてこれは、
社会起業家をみるときに抱く感覚と類似しているともいえるのではないでしょうか。
さらに興味深いのが
人を励ますことのできる物語を大別した研究によると、
世の中の優れた人を励ます物語とは
「挑戦、絆、創造性」
のいずれかに分類されるそうです。
挑戦とは、主人公が圧倒的な障害に直面しながらもそれに打ち克つ物語。
観る人は勇気づけられ、自分も同じように頑張ろうと奮起します。
絆とは、人種、宗教、階級、民族、人口統計上の違いを乗り越えて人々が関係を育む物語。
観る人は寛容になり、他人を助け、人を愛したくなります。
そして創造性とは、革新的な方法で問題に取り組む物語。
観る人はいつもと違ったやり方を模索し、創造性を発揮し、新しい方法を実践したくなります。
そして週刊少年ジャンプが掲げる三大原則に
「努力、友情、勝利」
というものがある。
これは、先程の
「挑戦、絆、創造性」
に非常に良く似たカテゴリーです。
だとしたら、
週刊少年ジャンプは必然的に優れた物語の条件を満たすことになるのかもしれません。
だとしたら、
優れた物語を持つジャンプと相関性の高い社会起業家の物語も、優れたものだといえそうです。
(優れた物語であることの証明に、ジャンプをわざわざ介在させる必要はないかもしれませんが。笑)
絶望的ともいえる困難な状況で、アイデアと実行力を積み重ねて問題に打ち克つ彼らの姿は
同じ世界にいるはずなのにどこか壮大な物語を生きている気がするし、どこかジャンプの主人公たちに重なる気がします。
若い人たちの間でジャンプが人気であることと、社会起業家への熱視線。
それらが全く関係のないものだとは、僕は思いません。
こうした非現実的なヒーローの物語が、青年たちを魅了している。
裏を返せば、
自分が主人公になれる物語を渇望している
といえるのではないでしょうか?
壮大な物語を活き活きと生きる彼らに少しでも自己投影し
そんな物語を自分も歩みたいと
まるで椅子に座って雑誌を読むときのようにふんぞり返りながら
楽してヒーローたちのように活躍したいと非現実的な憧れを抱いているのではないでしょうか?
なぜ、物語を渇望するのか?

最近、特に広告界隈ではこの"物語"における論考が炸裂してますよね。笑
僕はこの"物語"というものを定義づけることにあまり意味を感じていませんが...
(受け手の数だけ物語の捉え方は多様化してしまうので
たとえそのすべてを網羅する抽象的な概念レベルで定義づけることができても
その汎用性の高さがかえって具体性を欠き、「だからなんなの?」となってしまうような気がして。)
ですが、
コンシューマーサイド(受け手)の立場で"物語"へ関与するために必要なエッセンスを挙げてみるならば
「設定を信じること」
「自己投影すること」
「ルールに従うこと」
などでしょうか。
たとえばワンピースであれば
大航海時代、悪魔の実の能力者たちが海賊王になろうとするなか(設定)
自分はルフィ率いる麦わらの一味とともに、もしくは新たな登場人物やパトロンとして(自己投影)
敵をなぎ倒しながらヒーローとして活躍する(ルールに従い行動する)
その一連の物語を、読み手は当事者として生きている、気がします。
ここで重要なのは、物語の定義そのものではなく
「受け手は、物語の登場人物として活躍することで自己充足(存在意義の再確認)をしている」
であろうことに注意してください。
なぜ、物語を渇望するのか?
僕は、この"自己充足=存在意義の再確認"こそが最も大きな要因なのではないかと考えています。
つまり。
若者は存在意義を見失っているのではないでしょうか。
だからこそ、存在意義抜群のジャンプの物語に引力を感じるのではないでしょうか。
だとしたら。
なぜ若者は存在意義を見失いがちなのか?
その背景には
蔓延する「引き算思考」があるように思います。
引き算で考える世の中

さて、ここでようやく「算数」の話題にも入っていきます。
僕が算数(いわゆる足し算、引き算)の概念を用いるのは、
今の世の中の考え方に当てはまるのではないかと思うからです。
ちょっと、考えてみて下さい。
あなたは今、電化製品売り場に来ています。
目の前には多種多様、色とりどりの炊飯器。
さて、どれを買えばあなたにとって一番の「足し算」になると思いますか?
あまりにも恣意的すぎる質問ではありますが(苦笑)、
少なくとも僕にとっては、正直、本当にどれでもいい。
機能面ではおそらく差がほとんどないだろうから、やはり価格が安いものがいい。
費用対効果が最も良さそうなものを選びたいな。
たとえ電化製品でなくても、同じように考える人は多いのではないでしょうか?
よっぽど
友人の口コミを信頼していたり
芸能人など(家電芸人とか)が好きだったり
広告に感銘を受けたり
していなければ
機能面に差がない以上は価格やサイズ、デザインの勝負になってくる。
その中でもやはり一番大きい選択要素は価格でしょう。
一番安い(費用対効果の高い)ものを選ぶ。
それすなわち、引き算思考。
今の世の中において、
例えばiPhone4Sのような明確な足し算は、あまり存在していないように思います。
変わりに
自分の引き算を防いだり、
他人を引き算したり、
引き算で物事を考えて、相対的優位を保とうとする思考回路がはびこっているように思います。
書店に行くと
「後悔しないための~」
「周りに差をつける!」
といったタイトルの本がズラリと並んでいるのは、その典型的な象徴ともいえるのではないでしょうか。
(愚痴やいじめもその表れでしょうか。)
ちなみに
「~できるようになるための◯◯の方法」
といった書籍も売れていますが、これは自己への明確な足し算を示している。
確実に自分のメリットになるものは数少ないので、こうした文句に弱いのだと思います。
昔は、足し算の世の中だったと思います。
特に高度経済成長期では、働けばその分きちんと物質的な豊かさを手にできた。
各個人は歯車のように働く時代だったかもしれませんが、それでも豊かさが自分に返ってきた。
個人の小さな物語というよりは、経済成長という大きな物語の中で生きていた時代だと思います。
しかし、90年になってバブルがはじけると一転、
足し算から引き算の世の中に変わったのではないでしょうか。
ドラマのない個々の小さな物語を生きるようになって、反省のような生活をするようになった。
容易には物質的な豊かさといった足し算を感じることができなくなってしまった。
僕はその時代の移り変わりを生きていないので、あくまで憶測で話すことしかできませんが...
いわゆる、失われた10年。
そんな時代を経験したのが僕らの親で、そんな時代に生まれたのが僕らです。
そんな時代を経験した僕らの親は、
子どもには同じ思いをさせまいと、少しでも良い教育水準を目指すようになったのではないでしょうか。
周りの子と比較しながら、減点方式で子どもの人生の持ち点を計算するようになったのではないでしょうか。
そんな時代に生まれた僕らは、
一生懸命働いたところで物質的な豊かさは変わらなそうだと気づいていて、
身の周りの大人は平坦な毎日を繰り返しているようにみえていて、
世の中は割とすでに便利なもので溢れていると勘づいていて、
なのに頑張れと急かされながら周りの子たちと常に比較されていて、
だけど学校の勉強やスポーツで一番になれるのは1人しかいなくって、
クラスの残り39人は一番になれない経験を積み重ねていって、
自分の人生なのに、なかなか主人公になれない毎日。
頑張って生きた先に待ち受けるのは、どこに何を足しているのかも見えにくい物語。
全然ワクワクしない。
自分の存在価値ってなんなの?
そんな背景があって
「引き算思考」は今にいたるまで蔓延しているように感じます。
そんな背景があるから
存在意義が溢れている物語への渇望が生まれているのではないでしょうか。
あくまで仮定の話にすぎませんが、少なくとも自分の経験に照らし合わせて考えると
あながち全部が間違いではないかなとは思います。
(全てが正しいだなんて微塵も思いませんが。)
広告のコピーに
『ほかの子じゃなくて、昨日のボクと比べてよ、お母さん。 』
(人権週間/愛知県/2009/森俊博)
というものがあります。
自分にはとても胸を打つものがありました。
※---
ちなみにこれは完全な余談だと思いますが、失われた10年が終わるのは2002年頃、
そして移り変わりの2003年に『世界にひとつだけの花』が大ヒットしました。
「ナンバーワンになれなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」という歌詞が
熱狂的に大共感の渦を巻き起こしたのは、まさに当時のこうした時代背景の中で
「ナンバーワン以外の新たな存在価値をみつけたい!」という
くすぶっていたインサイトを見事に明文化したからだと思います。
次第にエスカレートしていき、我がままな子どもや親が増えた気もしますが...苦笑
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なぜ、社会貢献という物語が選ばれるのか?

さて、そろそろ終盤にさしかかってきました。
ここまで
社会起業家や週刊少年ジャンプの人気とその関連性を探り、
共通項として「物語を求めているのではないか」という仮説を立て、
それに関する一考察を述べてきました。
最後に。
なぜ物語の中でも社会貢献が選ばれるのか、ということについて考えていきたいと思います。
その理由を端的にいうと
存在価値の再確認のしやすさ
マイナス領域における足し算の魅力
の2つが重要だと僕は思っています。
ひとつめ。
存在価値の再確認のしやすさ。
社会貢献とは、その名の通り社会に貢献する行為だと思いますが、
特に社会問題と呼ばれる状況下で、困っている人に手を差し伸べる活動、ともいえると思います。
なので、地域的にはより未発達な途上国支援などが真っ先に思い当たるのではないでしょうか。
(またはエコ、それと震災以降は東北支援が主流でしょうか。)
例えば途上国支援を行う場合、
寄付をしたり本や食糧などを贈る、個人レベルでの支援。
起業支援や現地ビジネスなどを行う、団体レベルでの支援。
軍事介入やアドボカシーといった、国レベルでの支援。
この区分が適切ではないことは承知の上であくまでひとつの指標として記載しましたが、
団体レベル以上のことをしようとすると極端に成功率が下がるものの、
個人レベルの寄付や物資支援は、お金と行動力さえあれば比較的容易にできることでもあります。
そして、こうした簡単な支援でも、現地の人たちにとっては非常に有り難いもの。
誰でも簡単にできて、感謝されることはある意味わかりきっている。
(と、途上国の子どもたちをみて直観的には感じる)
感謝されること。
これは、自分の存在価値を感じる最も効果的な方法ではないでしょうか。
※---
ちなみになぜ感謝されると存在意義を感じるのか、という事までは述べる必要ないと思いますが...
昔、「感謝は疑似遺伝的行為だから嬉しいのではないか」という仮説を立てた。
生物学的な観点からいえば人間の三大欲求に性欲があって、これは遺伝によって満たされる、
つまり「自分のコピーを増やす」ことが快楽へとつながっていると仮定できます。
しかし、どんな人とも関係を持つような世の中では種の保存が可能な秩序を保てないから
欲望の捌け口としてアートや表現が生まれた。
よく作品のことを「息子のようにかわいがる」なんていうのは、その表れではないでしょうか。
そして、そうした作品がみる人を魅了することは、大きな快楽につながっている。
こうして考えていくと、「感謝される」ということは、ある意味疑似遺伝的な行為だと思う。
相手に自分の感性や思考を伝達することで相手を感化(浸食)することは、
少しでも自分と似た人間を増やす行為で、つまり「自分のコピーを増やす」ことにつながっている。
その成功のリアクションこそが「ありがとう」や「感動した」であり、
その言葉と相手の顔を見ることで、感謝される側は満たされる...
と、本論と全く関係のなく根拠も何もない、一個人の勝手な考えです。笑
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すいません、余計な話題を挟みましたが...
若い人たちは存在意義を見失いがちだとして、
感謝されることはそんな自分たちを満たしてくれる方法だとして、
気軽な社会貢献であれば割かし容易に他人から感謝してもらえるとなれば、
「社会貢献」は、結構魅力的にうつるのではないでしょうか。
そしてだからこそ、浅い考えで社会貢献しよう、という人は多い気がする。
そういう人たちの社会貢献は、ある種「娯楽消費」に近い。
自己充足できる物語をみつけて支援した気になって、終わりというパターン。
学生がなんか企画してやってみて、その後のケアをしないということはよくある気がする。
自分を棚にあげるつもりはなく、僕自身そうだったと思う。
熱意が継続しなくて、やったきりになってしまう。もしくはもっと面白いことをやりたくなる。
中途半端に問題に関与することが一番良くない。
そして熱意が継続しないのは、やはり「この人を!」というWhoが不在で
「何かやりたい!」「こういう自分になりたい!」というWhat/How発想だからだと思います。
そもそも世の中の企業はみんな社会貢献してるし、誰かを喜ばせることができなきゃ対価なんてもらえない。
松下幸之助も"企業は社会の公器だ"といっていたと思いますが、そうしたことに関して他の人はどう思っているのかまではわかりませんが...
一方、ウォルト・ディズニーは「与えることは最高の喜びなのだ。他人に喜びを運ぶ人は、それによって自分自身の喜びと満足をえる。」といっています。
彼がどんな文脈の中でこの言葉を発したのかがわからないため、解釈に齟齬が生まれているかもしれませんが、このことを自覚しながら社会貢献をやっているか否かって、僕は重要だと思う。
「彼らのためだから」という言葉を平気でつかう人をみると、なんだか胡散臭い。
「この問題、人をどうにかしたいんだ」という人をみると、応援したくなります。僕は。
そして、ふたつめ。
マイナス領域における足し算の魅力。
簡単なアクションで感謝され、存在意義を見出せる
という他に、社会貢献が選ばれるもうひとつの理由として
「社会貢献は世の中における明確な足し算だ」
という理由もあるかもしれません。
上述したように、若い人たちの感覚のひとつとして
「世の中は割と便利」で「足し算の余地があまりない」というものがあると思います。
そうした中、いわゆる"社会問題"と呼ばれる領域では、改善の余地がまだまだたくさんある。
つまり、ある意味「マイナス」の状態です。
そして先進国に住む僕らからすれば、ひょっとしたら僕たちでも貢献できるのではないかと思ってしまうような、マイナスの状態。
ましてや、社会起業家をはじめ特別ではない人たちが大きな足し算を達成するマイナスの世界。
かたや、スティーブジョブズのような超人でしか大きな足し算は達成できないプラスの世界。
大きなマイナスの数字に、大きな足し算をすること。
大きなプラスの数字に、小さな足し算をすること。
その"マイナスをゼロ、そしてプラスへ"や"足し算の幅"といったものが
関わるものに対して大きな存在価値を生むのではないでしょうか。
存在価値の再確認のしやすさ。
マイナス領域における足し算の魅力。
大きく分けてこの2つが、物語の中でも社会貢献を選択させる大きな要因になっていると
僕は考えています。
さて、様々なことを述べてきました。
「結局、だからなんなの?」
といった内容になりました。笑
(すいません、もともと発展的なテーマ設定ではないので...)
「なんで若者は社会貢献をしたがるのか」
という問いを立てていましたが、簡潔にいってしまえば
「存在意義を見失いがちな毎日の中で、自分の居場所を見出しやすいから」
(自らが主力キャラクターとして登場可能な物語に興奮するから)
と"僕は"考えています。
ただし、いくつか注意していただきたい点が...。
まずはじめに、これまで本当に偉そうに述べてきましたが、
「僕の考えは間違っている可能性しかない!」
ということです。笑
というか、正しいわけがない。正しくありたいわけでもない。
これまで考えたことを、折角なのでここにまとめてみよう、と思った程度にすぎません。
ちょうど去年ごろ、就活を前にして「なんで社会貢献したいんだろ...」と考えたのがきっかけで、
ここまで話を膨らませ(すぎ)て、これまで記載してきた内容はほぼ考えていたのですが...
ブログにまとめるのがいかんせん億劫なので、書いていませんでした。笑
書くことでなんとなくまとまったかな、という本当にただの自己満足。。
そのため駄文も多く、読みにくい内容となってしまったかもしれません。
気に障る表現や内容などがありましたら、本当に申し訳ありませんでした。
これからまだ知らないことをたくさん感じて知った気になって、考えをアップデートしていきたいと思います。
そしてふたつめが、
セグメンテーションの概念を理解してほしいということです。
「お前の思っていること、全然ちげーよ」
という前に、確認してほしいのは
"僕は若者を一様にとらえて論じてきたのではない"
ということです。
もっというと、
社会貢献がしたい!もしくはやってみた!(...でも、なんかうまくいかない。。)
というような層を想定してお話しています。
ちまたのギャル、ヤンキー。
スポーツに打ち込む女子男子。
勉強に励む紳士淑女。
ネットやアプリに興奮するデジタルネイティブ。
(新たな足し算領域なので吸引力高めな気がする)
それぞれが、それぞれの思考と行動で、それぞれの物語を生きている。
自分の居場所を見つけている(見つけようとしている)。
「若者」と一様にとらえるのではなく、細分化して考えることをセグメンテーションといいます。
僕と読み手の想定しているセグメントがそもそも違えば、「全然ちげーよ」となるのは必然です。
どんな人を想定して話しているのか、という点には留意していただけたらと思います。
(ご存知の方には本当に失礼な言い分かもしれませんが、一応念のため書かせていただきました。。)
終わりに。僕の場合。

完全におまけのパート。
そんな自分はどうなのよってことを、書いてみたいと思います。ものすごく怖いけど。
こういう話をするとき、語り手の信頼性は内容の説得力にむちゃくちゃ影響するので、一応。。
本文にちょいちょい挟んできましたが、僕はまだ社会も出たこともないひよっこ大学生です。
社会に貢献できたと自信を持って話せる経験があるわけでもありません。
むしろ、失敗ばかりのダメダメなやつです。
話者として、非常に説得力に欠けますね。笑
僕の親は、2度離婚しています。
今は姉と、片親が違う妹と、血縁関係はない父の4人で暮らしています。
自分の人生をコンテンツ化してしまうことには非常に抵抗があるので、
詳しく書くつもりは全くありませんが...
まぁ幼い頃から家や学校では割と辛いことだらけで、
メソメソ泣いてても解決しないので、何かしなきゃ何も変わらなくて。
今となっては平穏無事、ともなかなかいきませんが...
でもそうした経験があるから、
何かと感受性が高くなった。
思考力と行動力が割と身に付いた。
大切なものをきちんと大切にしたいと思うようになった。
何気ない当たり前に感謝し幸せを感じるようになった。
などと、勝手に思っています。笑
どれも今の自分にとっては欠かせない、大切なものばかり。
(失ったもの、できなくなったこともあるとは思いますが...笑)
だからこそ、自分の経験には感謝している。
姉と妹と父のことが大好きで、自分よりも大切な存在だと思う。母のことも。
そう思えることを、幸せなことだと思う。
(それを行動で示すのが非常にヘタクソなので、たびたび自己嫌悪に陥りますが。苦笑)
まぁ僕個人には、そういうバックグラウンドがあって。
そしてある日。
「3秒に1人、世界のどこかで子どもが死んでいる」ことを知った。(今は4秒に1人)
Save the Childrenという、NGOのネット広告でした。
それがむちゃくちゃ衝撃的で。
それをみてから、悩んでる自分なんなのとか、今の世界大丈夫なのかとか、ぐっちゃぐちゃに考えて。
(時間にしたら、一瞬だったと思うけど。)
「あぁ、俺はこのために生きるんだな」と思った。それが、高校一年のとき。
本稿に沿っていえば、運命的な物語と出会った瞬間が僕の場合はこれでした。
それから大学に入ってからは
カンボジアに行って現地の人たちをみたり
むしろ日本国内の問題に関心を持って取り組んだりして
自分には実力もリソースもないことを知った。笑
でも、自分と同じようにこうした問題をどうにかしたいと考えている人たちはたくさんいて、
ちょっとの違いなのにみんなバラバラだったり、他の人たちは極端に無関心だったり。
そこにコミュニケーションを創出することの可能性と意義をなんとなく感じ取って、
他人に共感して考えて行動することは割と向いている気がしたので、
この分野で力をつけたいと思って、トライ&エラーで勉強してみて。
で、今ここです。笑
最近は世界の貧困の他に、日本国内の自分の境遇に似た子どもの問題に寄り添いたいと思っています。
(もちろん修行しつつですが。)
僕のように、運良く前向きになれる子が決して多くないということは、わかっている。
そして何より、熱意と理解が持ちやすいし、また解決による汎用性も高い気がする。
(モデルケースとして日本各国、世界各国へ応用可能だということです。)
なので最近は、心のケアなどの臨床的なもの以外の観点として、都市のデザインに興味があります。
「できない」「やれない」「つまらない」の原因をすぐに意志の弱さに求めてしまいますが、
人間は環境要因によってかなり影響されやすいし、行動も変わりやすいといわれています。
人を気遣い、楽しめる街になれば、自分の街が大好きになる。
自分の街と人に愛着と誇りを持って生きられれば、きっと生活の質(QOL)や幸福度も向上する。
生活の質や幸福度が向上すれば、家庭の問題も少なくなると思うんです。
そして家庭の問題が少なくなれば、学校や社会の問題も、きっとずっと良くなる。
まだ勉強不足すぎるので、どなたか良い本や文献、セミナーなどご存知でしたらぜひ紹介して下さい。笑
まだまだまだまだ、
トライ&エラーが足りず、大切なものも大切にできてるのかも危うく、
色々と毎日悩む日々です。。
話せばきりがないし、字数的にもさすがにもうやめておきますが(笑)、
そんなこんなんで、僕も「社会貢献がしたい!」とか思っちゃってるクチです。
それをより広範化して、社会のひとつのトレンドとして考察してみました。
やはり、むちゃくちゃ長くなってしまいました。
もし最後まで読んで下さった方がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございます。
自己満足の固まりのような内容でした。ごめんなさい。
何かひとつでも、新たな気づきがあれば幸いです。
Thank you ^^.






















