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Apollo-12

広告とか、コミュニケーションとか。
社会貢献とか、社会起業とか。
まちづくりとか、コミュニティデザインとか。
そうしたものたちの、少し先とか横の話。

今回のエントリーは、以前からちらちら登場させてるSocial Marketing(ソーシャルマーケティング)について書きたいと思います。


まず、よく間違えられるようですが、ソーシャルメディアとは全く異なります。笑

ソーシャルマーケティングとは、ざっくり言ってしまえば
「社会的に良いことを広めるための戦略的なプロセス」です。

ビジネスの世界で一般的に用いられてるマーケティングを
一企業のためではなく社会にいいことにも応用しようぜって話なんですが、
それだけなのに、考慮すべき点は随分違うように思います。

そして、ソーシャルマーケティングのゴールは
「ある人の行動を、良い方向へ変えること」。
ちなみに、企業のマーケティングの一般的なゴールは
「生活者に商品・サービスを購買してもらうこと」だと思いますが、当然これと似てるわけです。
(購買は手段で、企業へのロイヤルティ向上がゴール、とか色々とあるとは思いますが...)


また、一般的に、ですが、以下のようなプロセスを経て戦略立案がなされます。

<why→who→what→how→4p>

【why】
エビデンスのレビュー。
まずはじめに行うのがこれ、と言われています。
ソーシャルマーケティングとは、つまり社会に良いことを広めるために実施されるわけですが、
この「社会に良い」ってのがなかなかのくせ者。

あなたが自信を持って「これは絶対社会に良いから!」といえるものって、何がありますか?

この「(社会に)良い」というのは、誰にとってなのか、そしてそれは"なぜ”なのか。
一筋縄ではいかないと思います。

例えば、ピンクリボンキャンペーン。
$Hello, my dear.
$Hello, my dear.
野球のドームでは、啓発デーに合わせてピンク色に染められた。

このキャンペーンの目的は、乳がん検診の啓発。
検診行動を広めることで乳がんのリスクを減らせるのですから、普通に考えたら、検診を呼びかけた方がいいと考えると思います。


しかし、アメリカのある文献では、こんな報告がなわれていました。

"35歳の女性1900人が乳がん検診のマンモグラフィを受けたところ、ガンが発見されたのは0件だった"

一見、なんともないことなのかもしれません。
しかし、マンモグラフィでX線検査を受けるわけですから、もしかしたらそれが原因となってガンになるリスクは上がるといえるのではないでしょうか?

...では、そういうリスクがあるのなら、啓発はしない方がいいのでしょうか?
しかし、「私は乳がんかも...」と不安に毎日を過ごすことは、パブリクヘルス的に心的健康に良くないわけです。


と、こう考えると「社会に良い」というのは難しい。
なんとなく良さそう...というのは、絶対に許されない分野です。
裏返すと、「社会に悪い」ことだけは避けなければなりません。

じゃあ、科学的にきちんと立証できてる「社会に良い」なんてあるんですか。。
ここで必要なのが、上述したエビデンスのレビューです。

世の中には幸いなことに、すっごく頭のいい研究者の方々が人生を賭して、この「社会に良い」ことはなんなのかをめちゃくちゃリサーチしてくれています。

例えば、感謝の手紙。
「感謝の手紙を送る」ことは、何気なく日常を過ごすある人の幸福感を向上させる方法として、科学的に立証されている方法らしいですよ。意外で面白いと思います。

では、感謝の手紙を書く、という行動を広めるにはどうすればいいか...
と、ここではじめてマーケティング的な思考に入っていくわけです。


何が「社会に良い」のか。
これを知っているだけでも、かなりの武器だなぁと思います。


【who→what→how→4p】
残りは雑にまとめてしまいますが、基本的には一般的なマーケティングとやることは一緒です。
つまり、

マーケットリサーチ(3C,SWOT,PEST,5forceなどなど)を重ね、
顧客をセグメンテーションして、
ターゲットをきめて(who)、
インサイトを発掘して、
何を言えばターゲットの心が動くのか定めたら(what)、
それをどういえばターゲットの身体も動くのかアイデアを出し(how)、
それを最終的に4P(Product,price,place,promotion)に落とし込んで実施します。

で、ここで大事なのが
・結果が全てであること
・評価方法をデザインし、実施すること
だといわれているのだとか。

結果が全て。
頭でどんなにいいことを考えていても、それだけでは社会は良くなりません。
実施すること。社会に影響を与えること。そしてベターな世界をつくること。
やりきってはじめて評価されるのが、ソーシャルマーケティングといえるのかもしれません。

そしてその評価は、どう実施されるのか。何をクライテリアとするのか。
実施したマーケティング戦略はどの程度まで影響があったのか、これは実施後の定量的な調査(アンケート等)や小難しい評価測定モデル用いて検証することができます。

こうした知見の積み重ねは他の地域でも応用可能なので、重要だといえます。


とまぁそんなことを述べてきたのですが、本当に言いたいのはここから。
僕がすっごく好きなソーシャルマーケティングのキャンペーンを紹介したくて、まずはソーシャルマーケティングについて書いてきた、のですが。。

はい、なんだか長くなってしまったので、今回はここまで。笑
次回、近いうちにそのキャンペーンを紹介したいと思います。


thank you ^^.
こんな時間ですが、こんな気持ちなので、ブログを書くことに。
すいません、きっと雑記になると思います。


今日、applimというビジネスコンテストの決勝に行ってきました。
すいません、applimに関する詳しい説明は省かせて下さい。
今、広告界隈の学生の間では一番ホットなビジコン、とだけ言っておきます。

この大会、僕は「マジョリカ マジョルカ」部門で出場してたんですが、普通に惨敗。
どんなアイデアに自分たちが負けたのか、
あるいはクライアントはどんなことを求め、どんな審査基準をもとに評価されるのか、
そのことを確かめに行ってきたわけです。


結果。

正直これ、という明確なものは見つからなかった。

だけど、"これ、という明確なものは見つからなかった"ことそのものが、一番のラーニングポイントだったと思う。

もちろん、明確にここが足りなかったという点はいくつもありました。
例えば。
アプリの機能自体には新奇性を求めず、そもそもそれが必要だという認識すら抜け落ちてたよね、とか。
世界観っていうけど、それを具体的かつ明確な言語で詳細にあらわすならなんて定義すんの、とか。
こいつだけは100%つかうよねって思えるほどくっきりしたターゲット層とその気持ちを描ききってなかったよね、とか。

これらは受賞したアイデアを見て聞いたり、
あるいは、
「そもそも、クライアントのお題って本当にそうなのかと疑ってかかるべき」
「こんな人がこんな気持ちになるからこう動くよね、というインサイトが甘い」
「この案はこんな人をこう動かします、という以上に、この案が広まったあとにはこんな世界になります、という視座の方が大事」
といった審査員の方々の意見を聞いたりして、思ったことです。


ただ、それらを差し引いても、決勝に残ったアイデアをみて「あれ?」とは正直感じた。
周りをみても同様か、それ以上に疑問を呈している人は多かったように思える。
こんな時間なのに、twitterでちょこっと議論にもなり...こうしてブログ書くきっかけにもなったりしたわけです。

その主な理由は、事前に公表されていた審査基準、もしくはそれまでの審査員の方々のコメントと照らし合わせて、なぜそれら決勝のアイデアが優れているのかいまいちピンとこない、というものだったと思います。


けちょんけちょんに負けまくった僕がこういうのもおこがましいですが、

いい企画が勝つんじゃなく、勝った企画がいい

とは本当に思います。
勝つことが目的である以上は。


いくら審査基準があったって、審査するのは不確定要素満載の人間が行うわけで。
おまけにその人間は、クライアント、特別審査員...色んな人がいる。
そして色んな人はいるが、肝心の使う側、純粋なユーザーだけはそこに存在しない。
そうした中で、案の善し悪しは決定されていく。それが何を意味するか。

評価されるって、どういうことなのか。

審査員の方々の日頃の環境やバックグラウンドが入り乱れるわけだから、論理的に明確なひとつの解に収束するような絶対的な審査基準に落ち着くはずがなくて。
多分、会場が違ったり、会全体の雰囲気が違ったりするだけで、評価ってブレたりもするんじゃないだろうか。

評価って、生き物だなぁと思う。友人も同じことをつぶやいていた。

言語化されなかった無意識レベルにまでしみ込んでる、審査員の方々の「これいい!」という感覚、そこにどうやったら焦点をうまくあわせられるか。
そこってもっと、きとんと考え抜く価値のある部分だと思った。勝ちを狙うなら。

そうして、左脳的に勝ちを呼び込むベクトルがある。
勝つための条件をきっちり整理して、それらチェック項目をきちんとつぶしていく方法。
でも、それだとどうしても超えられない一線もある、と今回感じられた。

優勝チーム、なにより目立ったのが、想いだった。情熱かな。迫力といってもいいかも。
クライアントの課題に心底共感して、一緒に悩んで、悩んで、
その先に生まれる主観的な「こうした方がいいと思うんだ!」というような、そんな強い想い。
自分がターゲットのど真ん中になりきっているからこそ、主観とインサイトが直結するような、そんな瞬間。

一緒に悩み共感してるからこそ、深く鋭く具体的に思考を描ける。
この案が広まったあとにはこんな世界になります、したいです、という視座をはっきり持てる。
たしかに左脳的な思考ベクトルは必要だけど、みなが同水準のものを持っていれば、勝つための条件なんて誰が考えてもそこまで差がつかない。
その先、どんな世界にしたいか、という右脳的な感性の部分で、勝敗がきっするように感じました。

そこが圧倒的に自分たちは弱かったなぁ...と思います。

あと補足ですが、上述した、いい企画が勝つわけじゃないってことについて。
矛盾するようだけど、勝たなくてもいいと思う。
その「いい」が、審査員ではなくクライアントとユーザーの「いい」だと絶対的な自信があるのなら。
目的が勝ちという事実ではなく、その先のベターな世界の実現に向けられているのなら。

(ただ、勝ちってすごく有効な手段だとは思うけど。)


今、この現状からなにかしらのラーニングポイントを見出せなきゃ成長はない。
まずは事実をきちんと飲み込んで認めないことには、先はないなぁとか思っちゃってるので、こんなことだらだらと書いてきました。。



最後にまとめてみます。
ここでようやく表題の話になるんですけど(!)、
何かしらの課題に取り組む時、ざっくりいって努力の方向性は2つあると思う。

それが
「問」の質を高めることと
「解」の質を高めること。

インサイトを見極める。コアアイデアを絞り出す。具体的なプロモーションを詰めていく...
これらは全て、"「解」の質を高めること"に分類されると思います。
つまり、いかにベターなアイデアを出すかという思考ベクトル。

でも、アイデアの質を高める方法はもうひとつあって、それが
"「問」の質を高めること"だと思う。
クライアントの本音を見極める。審査基準や審査環境を考察する。お題をより適切に翻訳する...
つまり、いかにベターなテーマを設定できるかとう思考ベクトル。

500mℓのペットボトルを満タンにしても2ℓペットボトルの半分を満たす水量には勝てないように、設定したテーマがしょぼいと、その器の中でどれだけベターなアイデアを出しても、良質な問を設けた平凡なアイデアには負けてしまうのではないか。
より適切なカタチ・大きさの器を設定できるかって、めちゃくちゃ重要な視点だと思う。

そして、両方の質を高めるにはいかなるプロセスが存在しうるのか...答えはないのかもしれないけど、考えることは決してやめてはならないと思う。考えるの、楽しいし。


thank you ;-)
ブログを書こうかずっとフラフラしてたけど、9月に入ってようやく踏ん切りがついたので更新。
今後、ちょくちょく更新できるように頑張ります。

***
1990年、スタンフォード大学で興味深い研究結果が示された。
その研究はコミュニケーションに関するものだったのですが、被験者を叩き手と聴き手とに分け、叩き手には「ハッピーバースデー」などの有名曲のリズムを指でコツコツと叩いてもらい、聴き手には叩くリズムから曲を当ててもらうというゲームを実施しました。

結果は、叩き手は聴き手の正答率を50%と予測したのに対し、実際は40人に1人の聴き手しか正解できなかったそうです。


つまり、叩き手は頭の中で曲を再生しながら叩くから、コツコツという脈絡のない音を聞かされる聴き手の気持ちがわからないということ。


このことは、もっと一般的な場面でも見られる。
腐るほど見られる。

最近あった面白い話とか、
怖い話とか、
自慢話とか、

そういったものを友達にされる時、大概、話し手の頭の中に流れるメロディーをつかまえることは難しい。
相手の思う「面白いでしょ」や「怖いでしょ」や「すごいでしょ」とはどうしても温度差ができてしまうのは、共有できるのがあくまで疑似的な経験であるからだと思う。

プレゼンテーションの時なんて、まさにそう。
何時間もかけて発表内容を用意して考えまくると、相手がそのことに無関心かつ無知であることを忘れてしまう。(正確には、相手の状態を想像する事ができなくなってしまう。)

そして、相手へのメリットを言い忘れ、自分の発表する事柄がどんなに重要か、その特徴ばかりを述べてしまって相手に伝わった気になってしまうことは、多いのではないだろうか。



他にも、例えば、こんなことがあった。


今月に入って2度被災地へボランティアに行った。
そこでもやはり、同様の場面があった。

今から話すのは、2度目の被災地へ行ったときのこと。
ピースボートが主催する緊急災害支援で、石巻へお墓掃除に行ってきました。

$Hello, my dear.
お墓の近くのお堂。お昼はここで。

$Hello, my dear.
迎えにくるのを待ってる。

$Hello, my dear.
$Hello, my dear.
女川地区。
本当に元通り以上に復帰できるのか、自分にはよくわからない。


1度目に被災地を訪れたのは、若林地区といって割かし被害の少なかった地域。
で、今回は被害の大きかった石巻。
ゼロからプラスへ、という復興のフェーズだけでなく
マイナスからゼロへ、という復旧のフェーズを見て感じて体験しておきたかった。

今回はひたすら泥まみれになったお墓の清掃作業で、基本的に瓦礫撤去と土嚢袋に延々と土を詰めて、8時間。
それでも1000円で被災地行けて、いい汗かいて、数ミリでも誰かの役に立てる。
すごく割のいい体験が実現していたのは、後ほど知らされた「ボランティアが減ってる」という現状を踏まえ、ピースボートが力を入れているからでした。


と、前置きが長くなってしまいましたが、なにはともあれ、日中のボランティア活動後。

夜、宿泊するプレハブ小屋では参加者に向け、全体を取り仕切る主催側の男性から、彼らの想いを延々と聞かされる場面がありました。

東京で被災してからピースボートの運営に携わっているらしい彼が、当時の悲惨な状況をビデオで織り交ぜながら語ったのは、

「今、人手が足りない」
「帰ったら友達にこの事実を広め、ボランティア参加を勧めてほしい」

しかし、この時僕はある種の嫌悪感を感じていた。

僕は、自分の知らない歌の歌詞だけを聴かされて「ね、すごく良い曲だからみんなに広めてよ」と言われたような気分だったから。

きっと彼の頭の中には、これまでの経験や感情といったメロディーが流れていたんだろうと思う。
しかし、それらを省いて単なる事実や抽象的な想いといった歌詞だけを告げられても、共感しにくいし、動きたいとも思わない。
むしろ、半ば強制的に使命感を植え付けられているということで、嫌悪感さえ感じてました。


とはいっても、周りの参加者さんがたは初参加の人が多く、たっぷり使命感を植え付けられているようでした。
東京に帰ったら、「被災地はこんな状況だし人手が必要だから行ってみなよ」と周りに広める人は、そう少なくないと思う。

自分の頭の中のメロディー、相手に届くのかな。



多分お気づきの通り、歌詞をメロディーに乗せて伝え、相手の心をつかむ方法のひとつには、

経験談=物語

が重要だと思う。


帰り際に最後、現地の方からお話がありました。

その方は、妻を失い、子どもを失い、会社を失い、それでも生き続けることを、私たちボランティアへの感謝の気持ちを、丁寧に、力強くお話されました。

一度たりとも「人手が足りないからまた来てください」とは言いません。

しかし、先程の共感しにくい演説では動かなかった心が、ぐらりと揺れました。

経験を伴わない自分の考えや言葉を恥じもしました。


先程の、「今、人手が足りない」と訴えていた運営側の男性。
現地の方の話とは2つの違いがある。

ひとつは、自分の物語を話すこと。
自分が言うからこそ意味のある具体的なエピソードをチョイスした方が、聴き手の感情を揺さぶる。
他人の経験談を話しても、意味は半減してしまう。
自分の歌詞はきちんと、自分の歌に乗せた方が良い。

もうひとつは、強いお願いをしないこと。
学術的には「心理的リアクタンス」とか言われる。

「あなた間違ってるよ」と言われたら反発したくなるように、
「わたしこっちもらうからあなたはそっちね」と言われたら反発したくなるように、
AとBの2つの選択肢があった場合、片方を強要されたり奪われたりすると、失った選択肢を取り戻したくなる心理のことを指す。

選択肢を強要したり奪ったりするのではなく、その手前で、気持ちを後押しした方がいい。
友達をボランティアに誘う気持ちを誘発したいなら、正直にそう伝えるのではなく、「この人のために動きたい!」と思えるような物語を聞かせる方がいいのではないか。
自分の意志できちんと選ぶ選択肢は、とても魅力的で力強く思える。



...と、ここまで述べてきて。
そんなこと、ごちゃごちゃ言ってるけどどうでもいいような気もする(笑)

だけど、少なくとも、参加したボランティアさんたちは周りの人に、「被災地はこんな状況だし人手が必要だから行ってみなよ」と広めるのだろう。
もしくは、気持ちが冷めて言わないかもしれない。

色々な考慮すべき点を列挙したけど、「その人と友達」という主体-客体の関係の強さがあれば、使命感を煽っても、もしかしたら動いてもらえるかもしれない。
「この商品いいらしいよ」と企業に言われるのと友達に言われるのとでは違うように、「何を言うのか」以上に「誰に言われるのか」は非常に重要だから。

ただ、もうひとつ観点を加えるなら、何かを始める理由と続ける理由は違うということ。
続けている人ならその良さがわかるから"特徴"を言えば良いけど、
始めようか躊躇している、もしくは関心がない人には、きちんと"相手へのメリット"を伝えないと動いてもらえない。

「被災地まだやばいよ」
「こんな人の話が感動したよ」
「むこうでこんな経験をしたよ」

というのは、行ったことない人からすれば、どれもテレビで見聞きしたことあるような"特徴"でしかない。
もっというと、ここでも話し手の頭の中だけにメロディーが流れている。

冒頭で述べたように、これはある種のプレゼンテーションなのだから、きちんと"相手のメリット"を伝えるべきだと思う。

「1000円で東北旅行って冷静に考えたらすごくない?」
「汗かきまくって2日で2kg痩せたわ」
「参加者のほとんどが初ボランティアで、みんな良い人ばかりで楽しかったよ」
「宿泊所はシャワーあるし弁当もついいてて、もはやおもてなされた」
「原発とか地震とか、全く心配なかった」

何が相手の不安を払拭して気持ちを後押しする情報なのかはわからないから、相手のことをよく知る必要もある。
こうした情報を、感情を揺さぶる物語とセットにして伝えると良い気がする。


久々の日記なので、だらだらと書いてしまいました。
(多分、一回一回が長文だから続かないんだろうなぁ。苦笑)

まぁまとめとくと、

伝えたい事柄(歌詞)は個人の具体的な経験という強烈な物語(メロディー)に載せると、相手の感情を揺さぶることができると思います。
訴えたいことの特徴ではなく相手へのメリットを伝えると、理性を揺さぶることができると思います。


thank you ^^.