聖書の言葉です。1/2 | 牧師剣士     (堺育麦キリスト教会牧師)

牧師剣士     (堺育麦キリスト教会牧師)

48歳から28年ぶりに剣道再開。
すっかりはまってしまいました。
57歳で五段をいただきました。長年クリスチャン剣士でしたが、2010年11月に牧師になりました。これからも神と人に仕える者となっていきたいと願っています。剣道修業も続けていきます。

2015517日(日)


おはようございます。

爽やかな5月です。

今日は何の日カレンダーから

オランダ商館、出島に移る(1641)



江戸時代、日本が鎖国した時に、唯一、海外貿易を行った国。それはオランダでした。しかもその貿易は、長崎の出島という小さな小さな区域でだけの貿易でした。その出島にオランダ商館が移った日です。(本当に517日かどうかは疑わしいですが・・・・。とにかくそうだと信じて)


出島についてちょっと調べてみました。

出島は、江戸時代(1634年)にポルトガルとの貿易の中で彼らを管理するために幕府が長崎の有力者に命じて建造された人口島です。

長崎の有力者たちは、ポルトガルに出島を借地する事によって利益を受けていました。


当時ポルトガルは、宣教師を派遣し、キリスト教の布教活動が熱心でした。


織田信長は、南蛮の文化を愛し、キリスト教にも理解があり、神学校も作られ、九州方面には多くのキリシタン大名が出来ました。近畿では高山右近が有名です。


豊臣秀吉も、最初はポルトガル、スペインとの貿易を重視し、キリスト教の布教も寛大でしたが、自身の女性関係などを責められ、キリスト教を迫害し始めます。

貿易だけの利益を受けようとしていました。


徳川家康の時代になって、神の元の平等を説き、将軍よりも偉い主なる神がおられると言うキリスト教は、江戸幕府の根本を脅かす者として、キリスト教の弾圧が始まりました。

それでもポルトガルとの交易は出島を通じて行っていましたが、

キリスト教徒の反乱と言われる天草四郎を中心とした「島原の乱」(193712月から19384月)の体験するに至り、

徳川幕府を守るためには、キリスト教を完全に排除し、キリスト教の布教と植民地化を狙う、ポルトガル、スペインを日本から追放し、後に言う鎖国政策を断行します。(当時ポルトガル・スペインはカトリックでキリスト教の布教に熱心でしたからです。)



ここに至って、出島は誰も利用しないさびれた島となります。

出資をした有力者たちは、目算はずれであったでしょう。



しかし、新興国であったオランダは、プロテスタントのキリスト教国であり、キリスト教の布教よりも貿易を求めていましたので、キリスト教の布教は一切しないと言う約束の元、オランダとの貿易が出島で行われるようになりました。

これが4年後の1941517日です。

平戸に商館のあったオランダが、厳しい幕府の管理の元、完全な閉鎖地域 出島を通してのみ交易をする事になるのです。


それから約220年(1859年)出島によってオランダとの貿易が行われるのです。


江戸時代の日本は、鎖国と言う、世界とは全く縁のない社会の中で過ごしていくのです。


世界の窓としてはヨーロッパの小国 オランダを通してのみの知識です。

でも、これがあるとないとは大いに違ったと思います。

オランダの書物を通して、日本人の知識人は勉強をしました。

「蘭学」(らんがく)と言うものです。


幕末、大阪で緒方洪庵と言う人の適塾と言うのは全国の秀才が集まっていました。

福沢諭吉も、幕末に蘭学の優秀な生徒であり、徳川幕府が開国をして横浜に外人居留地が出来た時、「いっちょう。自分たちが学んだオランダ語がどれほど役に立つか行って見よう」と行って見たら、看板も言葉もすべて英語・・・・。

全く通用しなくて、驚き、世界に追い付くためにそれから必死で英語を学んだと言われます。

小さな窓では、世界ははっきり見えていなかったともいえるでしょう。


しかし、世界に開かれた、小さな、小さな出島は、日本の夜明けにとって大切な大切な役割を果たしたのです。

その出島に、オランダ商館が出来た日が374年前の今日でした。


今週の暗唱聖句をお送りします。


今週も皆様の上に神様の豊かな祝福がありますようにお祈りしています。