渡部遼介オフィシャルブログ「Ryosuke’ Note」powered by アメブロ -252ページ目

9割が準備

可能であれば、シーンに変更があった場合、全員にその旨(むね)が伝わっているほうがいい。

実際、たったひとことを替(か)えただけで、その作品にとってまったく違ったポジションになるケースが、多々(たた)見受けられるからだ。


いざ本番前にそのことを告(つ)げられると、まずその確認、解釈に貴重な撮影時間を取られる。

そのうえ変更したことによってほかの何に影響があるのかが理解できないでいると、よりデメリットに振り回されることになる。

たとえば一番目に準備。できるひとほど、見えない用意をしてくる。もちろんいたずらにこだわることはないが、本当によいシーンを生み出すのに欠(か)かすことはできない。対応するために即興性や小手先(こてさき)だけに頼るのはつまらない。


とどのつまり、ベテランほど準備の仕方を知っていて、それを利用しない手はない。とくに演技には顕著(けんちょ)に現れるのだが。敢(あ)えてやっつけ仕事にする必要はない。

いい演技とはなんですか?

俳優はいつも演技を追求している。目に見えず、資格も取れないのに。

そのうえで客観的な視点で、シナリオ、演出等々を含むプロジェクト全体を見渡すものだから、よけいに際限(さいげん)がない。


『いい演技とはなんですか?』


シンプルにこう聞かれることがある。シンプルは良い。ものごとの本質を浮かび上がらせる。


たいていは、こう答える。


『わからない』


本当は解(わか)っている、自分なりに。だが相手を納得させる術(すべ)を持ち合わせないときには便利な言葉だ。
ただ相手がそれを聞く覚悟ができているなら、話は真逆になる。

たいていそうはならず、本当に解っていないひとたちと一緒の袋に入れられて終わる。

アントン・チェーホフ

個人的な印象では脚本を読めない場合、この作家の作品は総(そう)じて、市井(しせい)の人々が粒立たず退屈なものになりがちだ。

だからといって、役者のキャラで色分けしていくと、シーン自体の流れがまもなく絶(た)たれる。じつは底に人間が描かれているという恐ろしい舞台。

また悲劇なのか喜劇なのか、という真逆の演出がすでに確立され、後者はとくにいろいろな冒険、アラが浮き出るのと同時に、演出家にとって立ちはだかる昇るべき岩肌(いわはだ)に感じられているように思われているだろう作品もある。

たいていはまず韻(いん)をダジャレにして失敗する。繰り返しは「笑いの許可を与えるサイン」ではあるが、観客席にはそもそも前提として、それを許容(きょよう)する温度があるはずだが。