渡部遼介オフィシャルブログ「Ryosuke’ Note」powered by アメブロ -114ページ目

やっている意味がない。

じぶんが楽しくなければ、やっている意味がない。

観客が満足してくれなければ、やっている意味がない。

仕事として成立しなければ、やっている意味がない。

稼いで生活できなければ、やっている意味がない。

ともに歩いてくれるひとも生活できなければ、やっている意味がない。

他人よりいい暮らしができなければ、やっている意味がない。

有名にならなければ、やっている意味がない。



やっている意味がない。



ネガティブに聞こえるけれど、じぶんの最低限の立ち位置をつねに自問している。


このなかに唯一の正解はない。


そして、どれも間違ってはいない。



しかし、その違いは大きい。

葉桜(はざくら)

毎年、桜の中に葉が混じりはじめると、なにか取り返しのつかない、とてつもなくおおきな忘れ物をしたような気持ちになる。


年齢を重ねていくうちに、取り戻せないモノの多さにひざをつきそうになる。


けれど、毎日は意外にあふれていて、去年できそうもないと諦めかけていたことさえ、今はぼくの人生になじんでいる。


間違いなく、いつだって、じぶんで変えられることは少なくない。

考えてみれば、桜もまた来年の今頃、きっと花開く。

1年なんて、目をつむって開いたらすぐだ。


それを儚(はかな)いと思うか、焦りと感じるか、または希望と受け止められるのか。

どちらに優しいのか

ひとつの作品ができあがるとき、目に見えない大勢のひとたちがかかわっている。

もっと言えば、だれを見せてだれを見せないかも演出のひとつであって。


そして、ぼくたちはつねに前者の側にいる。


しかし、だれもがその権利を持っているわけではない。

そして、その資質を持ちえている人材はたぶん少ない。


満たされない器があれば、それを疑問視するのは当然であって。


それを、フォローするのはいつでも美しい。

ぼくたちは仲間だ。

みなで同じ方向を向いている。

争いはやめよう。

お互いの問題を指摘するのはやめよう。

ぼくたちは優しい。


その考えが、観客にとってはいちばん優しくない。