風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」 -133ページ目


キムヨナ選手って、奥二重なのかな? でも、彼女は美人だ。 

韓国って美人率が高い。中国はあれほど人口がいながら、美人率は明らかに低い。
まぁ、日本で取り上げられる芸能人が美形であるのは当然と言えば当然なんだけど、僕の実体験からも、韓国人女性は美人が多い。
そのなぜを突き止めた人はいないだろうけど、僕も突き詰めてみる根気もない。

浅田真央選手は、けっして美人の部類ではない。でも、表情のせいか魅力的であるのは間違いない。スタイルも女性らしさを帯びてきた。そして彼女はあごが大きい、勉強したことはないけど、人相学的には晩成するのだろう。

村上佳菜子選手、典型的な、その辺にいそうな可愛い子である。鼻の穴が北島三郎を思わせる。初めてあの魅惑のスマイルを見たとき、おぉ、と驚いた。

世界フィギア、久々のお休みだったので、見てしまった。
そんな目で?! という突っ込みを覚悟で書いてしまったけれど、ほとんどノーミスのキムヨナの演技は素晴らしかった。彼女の回転は本当に速い。

ジャンプが残念だった浅田真央はその後巻き返し、自己ベストが出た。
点数の付け方がよく分からないのだけれど、浅田真央の方がより高いレベルの演技に挑んだようだ。ということは、どちらもノーミスだったら、浅田選手の得点がキムヨナ選手を上回る、ということになる。
彼女はもっと、先を見ているのだろう。

美人率の話に戻すと、韓国はキムチの国だ。焼き肉を食べても野菜もたくさん摂る。その辺を美人率に押し込む論法もある。でも、美容と美人は無関係だ。これをどう明かしてくれる!?

「韓国は金(キム)と李(イ)だらけ」と言った韓国人女性がいた。
「もう、そこらじゅうキムとイ」と笑った。
「実は日本人だよね!?」と何度も突っ込みを入れほど流暢な日本語を操る彼女もまた、見とれてしまうほどに美形だった。

休日用に買って外で一度試し履きをしたのはいいけど、かなりきつく感じたナイキのシューズを、
「いる?」と訊いたら、
「欲しい欲しい!」と応じた。
上げたら、早速履いて喜んでいた。そう、背の高い人だったから、ちょうどいいと言っていた。
彼女も3年ほど前に、韓国に帰った。

観光ではなく日本に来て日本で暮らし、やがて帰って行く韓国と中国の人たち。最近はミャンマー(ビルマ)の人も多く見る。その人たちが日本でごく普通の生活をしていたら、きっと感じるだろう。
日本人は優しい、と。

僕は、これほど人種で人を差別しない民族はいないだろうと思っている。僕が見るのは人種ではなく、人だ。だから多くの日本人もそうであると勝手に考えている。

その人たちに、もっともっと声を上げて欲しいと願っている。
日本人は友好的な民族なのだと。



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昨日見に行った八重紅彼岸
あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」-八重紅彼岸



キム・ヨナ選手







意欲というものが枯渇してしまう前に、僕は何でもいいから、書きたい。
何でもというのは語弊があるけれど、きっとそれは、意味のあるなしに関わらず、受け取る方にしては、さほど違いはないのだろう。
僕の書く内容が統一性を持たないのは、きっとそのせいに違いない。

何かを伝えたいし、何かを残したいと思うけれど、そのくせ実は何も伝えたくないのかもしれない。
何かに気づいて欲しいけれど、通り過ぎても欲しい。
ただ僕は、キーボードを叩きたい。

人は、わかり合えているように感じても、実はすれ違っている。
例えば櫛(くし)同士であるなら、同じものならかみ合う。
でも、違うもの同士なら、寸法が違う。そのすれ違いはどんどんひどくなっていって、不協和音は、致命傷となることもある。
人が生きて行くには、時としてひどくエネルギーを要するときがあるのはこのせいだ。
そんなとき、たとえば、自分が生まれたときに還って、母親の思いを感じることができたなら、人は、もっと強くもっと優しく生きられるのかもしれない。




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しまざき由理「面影」
誰かにとって、誰かが特別。これは別に珍しいことではなくて、多分みんながそうだ。

動きを止めて考えてみる。
僕は誰かにとって、特別だろうか? と。
そして今の君は、誰かにとって特別だろうかと。

ただひとりの自分という存在。
その集合体としての地球。

自分が特別だと思っても、相手がそう思ってくれなければ悲しき自滅。
相手がそう思ってくれていても、自分が気づかなければ遠くを吹く風。

そのすれ違いこそが、人生の醍醐味なのかもしれない。
それゆえに僕たちは、届かぬ思いに身を焦がす。

特別な人。掛け替えのない人。
だからこそ僕たちは、出会うべくして出会った〝特別な人〟を大事にしなければならないのかもしれないね。



ボビーコールドウェル/スペシャルトゥーミー

あなたは特別な人
あぁ、僕はあなたを愛する運命だったんだ
僕が落ち込んでいる時
あなたは優しく抱きしめてくれる
あなたはいつでも特別な人



ボビーコールドウェル/スペシャルトゥーミー




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「わたし太ってる」という女性に「そうだね」と言ったらどうなると思う? ブログネタ:「わたし太ってる」という女性に「そうだね」と言ったらどうなると思う? 参加中


幸いなことに、僕はこの悪魔の質問を投げかけられたことがない。
まぁ、厳密に言えば、
「ちょっと太っちゃって」と呟く女性は過去に何人か知っている。
そんな時は、こうなる。

「ん? 誰が?」
「あたし」
「あたしが、どうしたって?」
「ちょっと、太っちゃって」
「そうかい?」大げさに顔を離して、首をかしげて、全身を見る。
でも、太ってはいない。
「太ってるってさ」その間、僕の目は、辺りをすかさず見ている。
「あんな人のことを言うんだよ」 ↘↘↘ 



左がご存じジャイアン、右が妹のジャイ子。

$あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」-ジャイ子

登場したのはジャイ子が先で、ジャイ子の兄(あんちゃん)だから、ジャイアンってあだ名だって、知ってた?


「太っちゃって」と口にする女性はいくつかパターンがあるように思う。
ひとつは、ちょっと体重が増えたけど、それは分からないよ、と否定して欲しい人。
もうひとつは、おやおや? という視線を浴びる前にとりあえず言い訳を先にしてしまう人。

そんなことを気にしなくてもいい人もいる。それは太っていることを苦にしていなさそうな人。
ま、いわゆる中年太りのオバチャン。
そんな人がこの台詞を吐いたら、すかさずハグしよう。
そして、その脇腹辺りで両手の指をばたばたさせて、
「ホントだ! 腕が回らない!」と驚こう。

「クスノキじゃねぇよ」とボケが入ったら、間髪を入れず、親指を立てよう。 (o^-')b グッ!

ここで結論。
そんなこと言っちゃ、関係が崩れるのは間違いない。 ┐( ̄ヘ ̄)┌




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なぜか僕の幼い頃、家に顕微鏡があった。その薄いガラス板にいろんな物を挟んでは、僕は目に見えないものをたくさん発見した。

顕微鏡も進化してきて、どんどん見えるものが増えてきたけれど、それは肉眼で確認できないものが顕現されただけで、その顕微鏡が開発されたとたんに目の前に発生したものではない。天体望遠鏡だってそうだ。

見えると言えば、そうそう、この間のブログに書いたPC用の眼鏡、そもそも眼鏡を作ったのは初めてで、そのよく見える度合いにびっくりした。
鏡を見て、おぉ、自分の顔に対面するのは、実は久しぶりだったのだぁ!(大げさだけど)

そして、あ! 眉毛がゲジゲジになっとう! w(゚o゚)w
切らな 切らな! 早速はさみで整えた。

あ! 肌が衰えとう!w(゚o゚)w
こっ……これはどうしようもない。

これほど視力の落ちていた僕の目は、多くのものを見落としてきただろう。この眼鏡を掛けてみんなの顔を見たらどう見えるのだろう?
でもそれはない。普段は眼鏡をしていないから。


「科学的に証明できない」
この言葉が僕は嫌いだ。これほど愚かしい言葉を僕は知らない。実際科学が証明してきたものなど、ダビデ像の足の裏の端っこの、素材ぐらいのレベルに違いない。
「頭? 耳? 腕? へそ? なん? そいは、なん? ちんちん? そんなものは存在しない。科学的に証明できない。科学は絶対である」
ダビデの足の裏で、科学者はしたり顔をする。

それでもダビデ像は、今日もちんちん丸出しでそそり立っている。それがなんとも可笑しい。
足の裏でもぞもぞする人類を、水虫か? と思っているのかもしれない。

そんな中、学者も馬鹿ではない。〝証拠〟の見つからないダーウィンの「進化論」はすでに過去のものになりつつある。

iPS細胞研究の世界的権威で、記憶に新しい2012年のノーベル生理学・医学賞を受賞した 「山中伸弥氏」 (京大教授) 他多くの科学者も否定している。

変わりゆくものと、変わらないもの。一時的なものと恒久的なもの。
僕たちは今、一時的な移ろいの中、変わりゆくものたちの中に棲んでいる。それが苦しみの元なのだけれど、それは自らが選んだものだし、魂にとっての現実ではない。

亡くした者たちは戻らない。けれど、思えばマッハでそばにやってくる。そして、明日に向かって生きるようにと、優しく肩に手を置きエールを送る。

〝3.11〟にとりとめもなく思う。




ここはダビデ像ではなく、僕の好きなピエタ像「サン・ピエトロのピエタ」で。
〝イエスを抱くマリア〟ダビデ像と並ぶミケランジェロの最高傑作。ミケランジェロ23歳の時の作品ですね。
ちなみにピエタとは、悲哀とか慈悲の意味らしい。
当初批判があったとおり、確かにマリアは若すぎる。でも、このマリアを見ていると、涙が溢れるほどの感動を覚える。


あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」




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JUJU「ありがとう」

生きているからには苦しみというものがあって、驚くほど不幸の重なるときもあったり、まったく前が見えない闇の道もあって、そんな時、宗教に頼ろうとする人がいたりするのは当然といえば当然のことだ。

僕は、休止中のブログでも、このブログのどこかでも、新興宗教というものを否定してきた。人類の起源も書いてきた。
宗教の誕生にはその現れ方がいくつかあるのだけれど、その中のひとつに託宣(たくせん)というようなものがある。
いわば、神のお告げのようなものだけれど、ここで忘れてはいけない大事なことは、神はひとつだということだ。

唯一絶対神であり、ひとりぼっちのその存在は、ある日経験をしたいと考えた。そして宇宙を創造し、プログラムを埋め込んだ。そして自分を分けて送り込んだ。
僕は考えているしそれに間違いはないと思うのだけれど、唯一絶対神が人類にメッセージを送ってきたことは一度もない。

宇宙にはたくさんの存在がある。この神と、託宣の元を混同してはいけない。たくさんいるからには、そのすべてが素晴らしいものとは言えないからだ。

それを、ネガティブな存在、ポジティブな存在と呼んだのは、坂本政道さんだったろうか?
この方も、ネガティブな存在の声を信じて、誤った本を執筆してしまったとして少し方向修正をした。

こう考えるとわかりやすい。僕たちが犬や猫や小鳥だったとする。僕たちを飼うのが人間。でも、その人間のすべてが素晴らしいとは言えないはずだ。
人間だからといって、素敵な飼い主だ、かわいがってくれる、愛してくれる、そう信じてはいけないということだ。

飼いきれなくて捨てる人間がいる。
飼っている動物を傷つける人間がいる。

特に病的なのは、飼い猫などを刃物で傷つけて、あぁ可哀想可哀想と、看病する飼い主だ。傷ついているときは本当に献身的に看病する。
そして、それが治ると、やがてまた傷つける。
これを何と呼ぶのかは忘れてしまったけれど、確実にいる。

スピリチュアルの名を借りた宗教的なものだって存在する。
大事なのは、それがどこから発信されたものかだ。しかしながら、それを吟味するすべはない。
でも、できることがいくつかあるから、後で書こう。

世の中暗いニュースで溢れている。なぜだろう? 明るいことも、楽しいことも、感動的なこともたくさん起こっているはずなのに、なぜ、暗いニュースばかり……

それは、視聴率主義だからだ。
だとするなら、テレビ局、スポンサーが悪いのだろうか?

違う。

怖いもの見たさの視聴者が悪いのだろうか?

違う。

それを見る人がそれを楽しんでいるわけではない。同情している、哀れんでいる、憤っている、そして、悲しんでいる。

暗いニュースは、人間の生存本能に訴えかけるのだ。それを見た人に恐怖を植え付ける。人間は生きたいと思う。生き残りたいと願う。その本能を揺さぶるのだ。だから、世の中から暗いニュースの連鎖はなくならない。

宗教、あるいはその姿を借りたスピリチュアルに話を戻そう。

僕なりの判断基準がある。それは、恐怖を呼ぶようなものであってはならないこと。そう、暗いニュースが流れ続けるのと同じ現象と効果を生む。

それを行うについて一切の金銭が絡まないものであること。その信者数を増やそうとする意図がないこと。

強制ではなく、アドバイスがあること。何も望まないこと。何も押しつけないこと。敵を迫害しないこと。真理の道だけを、ただ悠然と歩むこと。

そして、愛に溢れていること。







真理というのはたくさんあるものではない。私の信じているものが正しい、他はダメだ! などと声高に言う必要があるだろうか。あるいは暗にほのめかす必要があるだろうか。
それが真理なら、黙って歩め。僕はそう言いたい。

あらゆる戦争の中で、宗教ほど多くの人を殺してきたものはない。
それは今も、続いている。

宗教に頼ってはいけない。聖書にすら頼るなと、僕は言いたい。ただし、生きる指針としてはいいだろう。

イエスの、小さき者をないがしろにした者を叱責するくだりなどは見事だ。仏陀の説く道も険しいけれど素晴らしい。

宗教を捨てて、街に出よう! 

アンドレ・ジッドでも寺山修司でもなく、byあ~る・ベルンハルトJr

何の資料も持たずに書いたので、今日はここまで。






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残酷な天使のテーゼ/高橋洋子

仕事から帰ってパソコンデスクに座ってみると、眼鏡がない。
またやっちまったか……

近所の眼鏡市場で買ったパソコン用の眼鏡。
右目が乱視で、21、000円也

探しあぐねた僕は、冷蔵庫の中まで見ちゃった o(・_・= ・_・)oきょろきょろ

何でこんなところに!?
なぁんてことはよくあることで、使ってたばかりのボールペンがキッチンの冷蔵庫の上に乗ってたなんてことも珍しくない。
行動に移ると、今までやっていたことを、ぱっと忘れる。でも、体はその状態を保ったままだから、次に起こす行動には不要な物を手に持っていたりする。だから、動線のどこかに置く。

こんな感じで、僕はよく、どこかに物を置き忘れる。これは10代の頃からの変わらない困った習性。
トイレから戻ってみると、つい今まで使っていた烏口(からすぐち)が見あたらなくて、部屋の中をうろうろするなんて日常茶飯事。
烏口というのは、製図とかデザインとかに使う例のあれだね。例のって…… (⌒_⌒; タラタラ

これ です。

こんな僕と一緒にいたら、君はしょっちゅう、「あれ、どこいった?」という質問攻めにあうに違いない。
そしてそのうち、遠慮深い僕の言葉は「え~っとさぁ」に変わる。
そのとき君は、「で? 今度は何? 何をなくしたの?」って訊くだろうか。

そうそう、冷蔵庫を開けるときは気をつけた方がいい。不似合いな物が入っている恐れがあるから。

眼鏡はね、パソコンデスクの下から出てきたよ。




「素顔のままで」 さびの部分で歌われる「I love you just the way you are」
訳すと「ただ、ありのままでいる君が好きなんだ」って感じだろうか?




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ビリージョエル/ JUST THE WAY YOU ARE 「素顔のままで」
得たもの以上に、この手から失せてしまったものの方が多いような気がする。
だとするなら、僕はこの世にいったい何を残せるのだろう。
この手の中に、今、何が残っているのだろう。
それは燃えかすか、僅かばかりの希望か。

僕が消えてしまったら誰かの記憶に残るのだろうか。
よしんば残らなかったとしても、パズルのような欠片はどこかに落ちているだろうか。
パズルは謎を呼び、謎は僕の凍った心に、最後のピースを填(は)めるのだろうか。
それが終わりなのか始まりなのか、僕には分からない。

僕はもう一度、愛の詩を唄えるだろうか。あの頃のような情熱的な愛の詩を。
願いが叶うのならば、僕はもう一度、歌ってみたい。

僕は歌わないのではなく、呪文で歌えなくなっているだけなのだから。




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高田みづえ「私はピアノ」
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「杉山君、あの子どう?」


杉山君とは、女性の担当責任者だ。あの子とは、仕事を始めて2ヶ月ほど経つコンパニオンだ。


「う~ん、ダメなんじゃないですかねぇ……なんか地味なんですよねぇ。顔も地味だけど……ダメでしょうねぇ」


「そうかぁ、○○君は、どう思う?」


○○君とは、僕だ。


僕はずっと思っていたことを口にした。
「もう少し見てみませんか? 彼女、目立たないけど、仕事はかなり地道にこなしてます」
「そうかぁ」支配人は、天井を見た。
「いざとなったら、担当違いですが、僕が指導に入ってもいいです」


その瞬間、杉山さんが鼻白んだ表情を一瞬浮かべたのを僕は見逃さなかった。そう、僕はウェイター担当だったから、それは越権行為だった。

「杉山君どう?」
「○○さんがそう言うなら、もう少し見てみましょうか」


幸いなことに、僕と杉山さんは仲良しだったから、その後仲がこじれることはなかった。


その地味な子はいつもAフロアだった。二十代の前半なのに、ひっつめ髪で、疲れた主婦のような表情だった。でも、僕は思っていた。そうさせたのはお店だと。


Cフロアが花形、いわゆる使える人の集まりで、Bフロアが2軍、Aは新人か、イマイチ使えない人に与えられるフロアだった。それはなぜかというと、もっともお客さんが案内されないフロアだったから。


案内されないと言っても、居心地が悪いわけではない。ジャズトリオのステージから遠くなるというだけだ。
そして、もっとも信頼を得られたコンパニオンは、フリーだった。担当フロアを持たず、自由に動けるのだ。

杉山さんが休みの日、僕は申し出た。僕に担当分けを任せてくださいと。
支配人は、いいよ、と頷いた。勘のいい人だったから何かを感じたのであろう、即答だった。


いつものように、女の子たちは紙片に群がった。それを置きに行った僕は、何気ないそぶりでそれを見ていた。そう、それを書いたのが僕だなんて、誰も思わないからだ。杉山さんが休みの日は、レジとクローク担当のお局さんの仕事だった。


その子は最後までじーと見ていた。そしてフロアに足を運び掛けて、また戻った。そしてまた、じーっと見た。


○○子、Cと書かれたその紙片を。


翌日から、来る日も来る日も、○○子はAだった。そして週一回、僕が書く日だけはCだった。強引な一本背負いみたいに。


僕は週一回のお局さんの仕事をひとりの女性のために奪ったのだ。お局さんとの空気が悪くなることを覚悟で。


「がんばれよ」すれ違いざま、その子の腰を軽く叩き声を掛けた。


その子はやがて、僕の期待通り、頼られる存在になった。それは、僕の喜びでもあったし、感謝すべきことでもあった。


僕の見立てを実証してくれたのは、彼女だから。






渋谷東急プラザ横の246号線で、首都高の橋桁に激突して死んだ奴がいた。
バイク事故だった。
十代の頃は絶対やんちゃしてたような風情を漂わせた、背の高い気の良いコックだった。

「うそ?」
「○○さん、ほんとなんですよ」
「マジで?」
「はい」

つい昨日まで、一緒に仕事をしていた男だった。まだ20代だった。

仕事帰り黒いネクタイを買い、池上線に乗って急ぎ駆けつけた。
まだ、赤ん坊と呼んでもいいぐらいのお子さんを抱いた奥さんの背中は、斎場の最前列で呆然としていた。背中なのに、呆然としているのがよく分かった。写真を見つめる丸い背中がそれを物語っていた。
だから僕は、何も声を掛けられなかった。

そして、あろうことか、その場所で、もうひとりの人が事故を起こした。
やはりバイクだった。折れたスポークか何かが刺さって、死んだ。
六本木辺りで仕事をしていて渋谷に流れてきた、どこか東北なまりの抜けない、武闘派だったけど、いい人だった。

人の死に、無駄や無意味はないと、僕は思っている。
しかし、いつも思うのは、死んだ人より、残された人が可哀想だということだ。

君死に給うことなかれ。




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吉田拓郎 「おきざりにした悲しみは」