スマホの着信音にちらりと見やった掛け時計は、午後の9時30分を過ぎていた。確認した発信者名は、僕を怪訝な気持ちにさせるのに十分だった。
こんな時間にいったい何だろう。そもそも僕に、今さらどんな用があるというのだろう。
ふぅと大きく息を吐いて、僕はスマホを耳に当てた。

「高瀬です。お時間大丈夫でしょうか」落ち着いた声がした。
「あ、はい。大丈夫です」
「驚かないで聞いてください」
不穏な一言に、僕の心臓はトクンと跳ねた。
僕の頭にすぐ浮かんだのは、高瀬と約束したことだったからだ。これだけは守ってほしいと、最後の最後までしつこく確認したことだった。
「もしや、美玖が裸のまま保管展示されることになったのですか⁉」
血液が逆流しそうだった。だとするなら、僕は全力で阻止しなければならない。
そんなことになったら、美玖があまりにもかわいそうだから。
それこそ何が何でも、極秘に進められたアンドロイド計画をマスコミにリークしてでも阻まなければならない。
恥ずかしがりの僕だって、カメラの前でも何でも立ってやる。
日本中の女性に味方になってもらって、これを覆すんだ。
「落ち着いてください門脇さん。大丈夫ですか? かなり息が荒れてますよ」
「ぼ、僕は許しませんよ。どんな手を使ってでもそれを阻止しますからね」
ふっと息が聞こえた。
「なんで笑うんですか。約束したじゃないですか」
「門脇さん、私はこう見えても約束は守る男です。そうではなくて、美玖さんが、そちらに向かったというお知らせです」
僕は壊れたバネ仕掛けの人形のように立ち上がった。
「今、なんて言いました⁉」
「美玖さんが、そちらに向かいました。詳細はご本人から聞いてください」
「高瀬さん、もう少し詳しく教えてください! 事情が分かりません!」
「彼女がここから、逃げたのです」
「逃げた⁉」
「というか、正確には、私が彼女を門脇さんのもとに向かわせたのですが」
「ますます意味が分かりません!」
「もろもろは彼女から聞いてください。タクシーで向かうように指示しました。時間的にはどうでしょう──もうそろそろ着くころかもしれません」
「え……もうこっちに着くんですか?」
「温かく迎えてくれますね」
「それはもちろんです! 本当なんですね⁉」
「彼女にとって悲しい終わりにしない約束を、この私としてくれますか?」
「悲しい終わり、ですか?」
「もしも彼女の存在があなたにとって邪魔なものになっても、蔑(ないがし)ろにしないと、約束してください」
「します! というか、邪魔になどなるわけがないじゃないですか」
「門脇さん、あなたはまだわかっていない。彼女が抱えたどうにもならない苦悩を……これは、彼女を不幸にする行動ではないかと苦しみました。私は彼女のボディの生みの親。少しだけ父親に近い気持ちを持っていることをお忘れなく」
「娘さんを、お嫁に下さい」
「門脇さん」ふぅーと長いため息が聞こえた。
「冗談はやめましょう。怒りますよ。それは無理だし、無茶なのです。門脇さんがお腹の出たおじさんになっても、ヨレヨレのおじいちゃんになっても、彼女はあのままですよ。馬鹿なことは考えないことです。彼女は、必ずここへ戻らなければならない定めなのです」
「冗談のつもりではなかったです。すみません」見えはしないのに頭を下げた。
「彼女は、美玖は……喜んでこちらへ向かったでしょうか」
「もちろん。悲しいぐらいに」
彼女の笑顔が浮かんだ。何もかもを包み込んでしまうようなふわりとした笑顔。
「ありがとうございます」
「それから──」
「はい」
「くれぐれも彼女を騙したりしないでください。優しさからくる嘘以外は彼女を不幸にします。彼女を必要としなくなったら、心を込めて話してあげてください。もしも彼女を不幸にしたら、刺し違える気で私があなたのもとへ向かいます。では」
不気味な一言で、スマホは切られてしまいそうだった。「あ、あの……」
「あ、最後に嬉しいお知らせがあります。彼女は、味の分かる女性になりました。では」
やっぱり切られてしまったスマホに深く頭を下げて、僕は通りに飛び出していた。
雨を呼ぶように強く吹く風が、耳元でボロボロと鳴った。目を細くした僕は乱れた髪を手櫛で梳いた。
風に乗り、潮騒が聞こえた。頭を巡らすと、街灯の光の中に銀の筋が見えた。家々の屋根を打つ雨の音だった。
やがて、通りの向こうから一台のタクシーがやってきた。じっと目を凝らすと、スーパーサインが賃走を示している。
大通りから外れているため車もたいして通らない道だ。電車のある時間に実車のタクシーが通ることなどめったにないから、これに乗っているに違いない。
第一声はなんとかければよいのか考えあぐねたが、気の利いた言葉など何ひとつ浮かばない。
おかえり。
それがいい。僕は彼女の帰る場所になる。この2年間の彼女の苦しみを僕はお返ししなくてはならない。
永遠ではないけれど、彼女の許す限り、帰る場所になる。
僕はただ、戦いに挑む戦死のようにふぅっと息を吐いた。
夜の闇を切り裂くように、ヘッドライトに雨の斜線を白く浮かび上がらせて近づいてきたタクシーは、やがてハザードランプを点灯さた。

タクシーに乗っていてずっと考えていたことがある。
第一声はなんとかけようと。
雨が打つフロントガラスの向こうに、見慣れた景色が流れてゆく。胸が痛くなる。
「その先を右に入ってください」
路面の水を切る音をさせながら、タクシーは右折した。
「あの先の」私は身を乗り出して指差した。「自販機の手前の建物です」
エントランスのライトに照らされ、影になった彼の姿が見えた。
タクシーを確認して腰をかがめるように顔を突き出している。
わたしは思わず前のめりになる。見当をつけたのか手を振っている。彼は待っていてくれた。
そして、決めた。
引け目など感じたら彼に申し訳ない。
胸を張って、ただいま、と言おう。
タクシーに向かって彼が走り出した。
両手を広げて、まだ止まらぬタクシーの横に覆いかぶさるように息を弾ませている。
「お帰り! おかえりなさい美玖!」
ただいま。
それは涙でくぐもって声にならなかった。
─FIN─
雨の街を/荒井由実
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