「それより」高瀬が考え事でもするように、ゆっくりと視線を上に向けた。
「私が今一番心配しているのは──美玖さん」視線を戻してしばし沈黙が続いた。
「今回の別れが一番つらいことになるのではないか、ということです」
「はい」それは充分予測できる。彼と添い遂げることはできないのだから。
「でも、私は彼に賭けてみます」身を乗り出した高瀬が何かを差し出した。
「使ってください」手に取ると、ポケットティッシュだった。
「門脇さんは、とても素直でやさしい人です。だから彼に賭けてみます」
「そうなんです」ティッシュで涙を押さえながら思わず口元がほころんだ。
「しかし──あなたがここを出て、彼のもとへ行くなどということに許可を与えることなどできません」高瀬が背もたれに背中を預けた。
耳を疑って高瀬を凝視した。
瞬時に色も音も失せた世界で、高瀬の眼鏡だけが光を弾いているのを目を見開いたまま見つめ続けた。
なんという人なのだ。心をもてあそんだのか。
突如、静かな部屋に掛け時計が秒を刻む音が響いた。弱った心音のようにも聞こえるその音が、逃れようもない現実の今を知らせた。
「怖い顔をしないでください。あなたは、僕が研究していた味覚、そのために再び目覚めさせられたのです。いいですね」
何の反応も返す気が起こらなかった。
「あなたに対する味覚の実験は僕が時間外に、自らの判断でやったこと。ここまではいいですね」
頷きだけで返した。
「僕は──あなたの味覚を確かめるためにコンビニに向かった。そう、アーモンドチョコレートやらを買うために。その隙に、あなたは逃げた」
「え?」
「逃げなさい」
「え?……はい?」
「許可を与えることはできないと言ったではないですか」
高瀬が封筒を差し出した。
「お財布の中身は確認していないので念のため渡しておきます。少ないですが、お金が入っています。
それと、彼の部屋に住むのはやめておいた方がいい。彼には私から電話しておきます。
落ち合ったら──そうですね、今夜は大丈夫ですが、あなたはしばらくビジネスホテルにでも宿泊してください。状況次第では彼も引っ越した方がいいかもしれない」
差し出された封筒にためらっていると高瀬が微笑んだ。
「遊んで暮らせるほどは入っていませんのでご遠慮なく。心ばかりの餞別です」
「ありがとうございます」
「荷物は──」言いながら立ち上がった高瀬は、キャビネットのドアをスライドさせた。
「私の私物入れですが、あなたのものは下段に入っています。バッグも、伊達になってしまった眼鏡も、あなたがここに来た時のままあります。鍵はいつも付けっぱなしなので、あなたが見つけたと思うでしょう」

「持って行っていいんですね?」
「もちろん。あなたのものですから。このままタクシーで向かってください」
「はい」
「警察は呼べませんから、大掛かりな事にはならないはずです。なにしろ犯罪者が逃げたわけでも、金品が奪われたわけでもありませんので」
「高瀬さんは?」
キャビネットの前から椅子に座りなおした高瀬が首を傾げた。
「私ですか? 私も一緒に逃げるかと尋ねていますか?」両手の人差し指と中指を、胸元でちょこちょこと動かした。
わたしは苦笑した。「それはまた、次の機会にしておきましょうか」
「冗談の分かる人で良かった」高瀬がおかしそうに、くっと笑った。
「責任は問われるでしょうが──まあ、問いたければ問えばいいのです。私ないなくなると研究は一歩も進まないことは誰だって知っていること。その点はご心配なく。困ったときはいつでも連絡してください。そして──ここに戻ってくるときも」
「高瀬さん、感謝します」
「通路には監視カメラが付いています。まずは僕がコンビニに向かいます。1分──いや、荷物を探したと考えられる時間を加味すれば──3分ぐらいでここを出てください。守衛さんと顔を合わせたら、お疲れ様ですと言っておけば大丈夫でしょう。何か尋ねられたら私の名前を出して下さい。
戻った私は、あなたがいないことに気がつき、追いかける。いいですね。せいぜい慌てたふりをして外に走り出ることにしましょう」高瀬はひとつ頷いた。
「ありがとうございます!」

「彼に与えられるものがなくなったとか、自分の役目は終わったとか、もしもそう感じて彼の元を離れるときも、悲しんだりする必要はない。
辛い別れがあったとしても嘆かないでください。穏やかな心で、ここに戻ってください。もしも終わるのなら、それは愛ではない。現実にたじろがないでください」
あれほど嫌だった高瀬の目が深い優しさで満ちている。わたしはこの人を、見誤っていた。
「はい」
「心は、どこにあると思いますか?」
「ここ……ですか?」胸元を押さえて見た高瀬は、こちらまで嬉しくなってしまうような笑顔を浮かべた。
「そうです! 忘れないでください。肉体は滅びても魂は永遠です。心は」手のひらを胸に置いてじっとこちらを見た。
「美玖さんの言う通り、心臓や脳の働きとは関係なく、ここにあります。門脇さんが失って泣いたのは、それです。だからあなたは、何の負い目も感じる必要はない。これが良きイースター(復活)でありますように」
高瀬は、私などここに存在しないかのように、掛け時計を見て立ち上がり、脱走ゲームの始まりです、と呟いて、何かをおかしむようにふっと弱く笑った。
「大丈夫ですね」背中で訊く高瀬に「はい」と強く頷くと、静かにドアが閉まった。
立ち上がり、ふぅと息を吐き、両手で頬を叩いた。
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