1890(明治23)年、一隻の船が横浜を出航した。
はるばるトルコから明治天皇の表敬訪問に来ていたオスマン帝国の軍艦 エルトゥールル号 だ。
9月16日夜半、折悪しく台風が接近していた。
木造フリゲート・エルトゥールル号は強風にあおられて漂流し、現在の和歌山県串本町沖にある紀伊大島の樫野埼東方海上で岩礁に乗り上げた。
そしてエンジンが爆発、直後に沈没してしまう。爆発で命を落とすもの、それを逃れても荒れ狂う海に投げ出されるもの。500名を超える乗組員が死亡する大規模な海難事故だった。

エルトゥールル号
エルトゥールル号が9000キロも離れている地からはるばる日本を訪れたのは、同じように米欧との不平等条約で苦労していた日本と「平等条約」締結を図ろうとしたためだ。
明治維新以後、独立国家として世界に姿を現したものの、日本はやはり、アジアの極東にある小国に過ぎなかった。
それを証明するような事故が、エルトゥールル号の海難事故よりさかのぼること4年前に起きている。英国貨物船「ノルマントン号」の沈没事件だ。
1886年10月、横浜から神戸に向かう同船は、暴風雨で和歌山県樫野崎の沖合付近で座礁沈没した。
奇しくもエルトゥールル号の遭難場所と同じ沖合だ。その際、船長ら英国、ドイツの乗組員26人全員は救命ボートで漂流していたところを沿岸漁民に救助された。
しかし、乗船していた日本人25人は船中に取り残され、全員が溺死、その死体さえ発見されないという事故だった。これは事故というより、明らかに事件だ。
“治外法権下”にある英国領事裁判が全員無罪の判決を下したため、船長らの人種差別的行為と不平等条約による領事裁判権に対し国民は激昂した。
政府は兵庫県知事内海忠勝を告発人として船長を同領事館裁判所に告発した。
同 1886年12月,神奈川県横浜市駐在イギリス領事館裁判所がくだしたのは、船長に禁獄3ヵ月の判決だった。
25人を人種差別的見殺しにしておきながら、たったの禁獄 3ヵ月である。賠償さえ行なわれなかった。
この事件により領事裁判権を含む不平等条約撒廃の世論が高まった。
オスマン帝国は、このような不平等条約に苦しんでいた日本に対して、善隣友好を持ちかけたのだ。
さて、エルトゥールル号遭難事故に戻る。
ドーンと腹を揺さぶるような爆発音がした。紀伊大島の樫野崎(かしのざき)灯台の灯台守はその音を聞いた。村人の多くもそれを耳にしただろう。
灯台の下に漂着した乗組員は、灯台の灯りを頼りに険しい断崖をよじ登り助けを求めた。

峻険な崖の上に建つ樫野崎灯台
大男の服は裂け、傷だらけの身体からは流血が激しい。
しかし言葉は通じない。爆発音とその姿から、船が難破したと直感した灯台守は、地元樫野地区の住民を集めた。
灯台から知らせを受けた島民は暴風雨の中を総出で駆けつけた。
そこにあったのは見たこともないような光景だった。
荒れる海岸には何百人もの男が折り重なるように打ち上げられていた。未曽有の海難事故だった。

樫野崎灯台下の海
どこの国の者であろうが構わない。目の前の海難者を救わなければならない。
島民は危険を顧みず岩礁から生存者の救出に向かった。
一丸となって真っ暗闇の中でひとりひとり確認していった。遺体にまざって何人か息のある人もいた。
男たちは服を脱ぎ、どこの国ともわからない海難者を己の体温で温め、医師は運び込まれた者たちの治療に当たった。そこは修羅場と化した。
紀伊大島は、当時3村から成る約400戸の島だったが、食料の蓄えもわずかな寒村だった。さらにその年は台風続きで漁もできなかった。
それでも非常食として蓄えていたコメや正月用の鶏までも、救い出した彼ら69人に食べさせた。もちろん着物も布団も。
10月初め、神戸で治療を受けた生存者は日本海軍の軍艦「比叡」、「金剛」で、帰国の途に就いた。
2隻には司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』で有名な秋山真之ら海軍兵学校17期生が少尉候補生として同船していた。
2隻が無事イスタンブールに入港したのは1891年1月で、トルコ国民は感謝の念をもって日本海軍一行を大歓迎した。

イスタンブールに停泊中の「金剛」
当時なぜトルコ航空機が日本人を救出したのか、その理由を日本政府もマスコミも知らなかった。後になって元駐日トルコ大使が次のように語っている。
「エルトゥールル号の事故における日本人の献身的な救助活動、トルコの人たちは決してそのことを忘れていません。今の日本人が知らないだけです」
トルコでは教科書にも載っている話で誰もが知っている歴史的事件だった。
これを、私たち日本人はこういい現わしたのではないのか。
「情けは人の為ならず」と。
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人に対して情けを掛けておけば、巡り巡って自分に良い報いが返ってくる。
もしもあのとき、こっちの身が危ないからやめておこう、どうせ日本人ではないから。助けたっていったい何を食べさせるんだ食料なんてないぞ。などと諦めていたら、トルコ航空機によるテヘラン邦人の救出劇は起こらなかっただろう。
さらに絆は続く。
平成11年(1999年)8月17日に発生したトルコ北西部大地震では、テヘランで助けられ、WELCOME TO TURKEYの機内アナウンスをその耳で聞いた商社マンや銀行マンは、義援金募集に奔走した。
日本政府も迅速に緊急物資や無償援助の提供、レスキューチーム、医療チーム、耐震診断の専門家、ライフラインの専門家が派遣された。
横須賀から救援物資の仮設住宅を積んだ海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」では出発前に艦長から次のような訓示があった。
「トルコ共和国はイラン・イラク戦争のおり、危険もかえりみずに2機の航空機を派遣し、テヘランに在留していた邦人215名を救出してくれた。
日本は、いまこそ、トルコの恩に報いなければならない。トルコのひとびとの友情に応えなければならない。
先達が遺してくれた日本とトルコの絆を断ち切るようなことがあってはならない。さあ、すみやかに、トルコへ向けて出発しよう。トルコには日本の支援を待ち焦がれているひとびとがいるのだ」
日本からの救援物資はトルコへ届けられ、仮設住宅は「日本トルコ村」と呼ばれ、ピーク時には5000人の避難民が身を寄せた。
ドアには日の丸が張られ、路地は「東京通り」「神戸通り」などと名付けられた。
東日本大震災発生時、トルコの救助隊が約3週間もの長期に亘り活動し、またトルコでも、東部ヴァン県を震源とする大地震が発生したときに、日本は緊急援助物資の供与、緊急無償資金協力を行いお互いを助け合う強い絆は続いている。
話は少しそれるけれど、米軍が沖縄本島に上陸した1945年4月、ソ連は日ソ中立条約の不延長を通告し、広島市に原爆が投下された8月6日の2日後、対日宣戦を布告した。
日本はポツダム宣言の受諾を決め、15日には昭和天皇の終戦詔書が放送されたが、ソ連軍は28日から9月5日までに択捉、国後、色丹、歯舞群島を占領。島には約1万7千人の日本人がいたが、1949年までに全員が退去させられた。
ソ連は日ソ中立条約を破棄し、終戦後に侵攻してきたのだ。
「北方四島はわが国固有の領土」の政府の主張はこれに基づいている。
しかし、米国の強力な軍事援助が四島占領の背景にあったともいわれている。アメリカがソ連の侵略を強く非難しない理由もそこにあるのだろう。
世界はカオスである。
アジアと西洋の境に、盟友トルコの国はある。
もしも日本人が近視眼的迷走に陥り、近隣のおかしな国々の嘘と捏造に惑わされているなら悲しいことだ。それは、日本を愛してくれる国々に対しても申し訳の立たないことではないだろうか。
海難1890
小説でもないのに
─FIN─
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