105号室の前に立った少女が、ゆるゆると首を回してこちらを見た。走るのをやめたおばあちゃんを、僕はそっと追い越した。
「開いちゃいました」小さな声で、少女は眉を八の字に下げた。
「開きました」
「いやだ! 気味が悪い!」僕の声に、おばあちゃんは両手で肩を抱くように腰をかがめた。
鍵は開いたけれど、ドアノブはまだ引かれていない。
おばあちゃんは同じ姿勢のままで、嫌々をするように首を振り続けている。

「開けますか? あたしも入ったことがないんですけど」キーを差し出しながら少女が小声で訊いた。
おばあちゃんはあきらめたのか、もう引き留めようとはしなかった。

中は当然のことながら、伽藍洞だった。
「月に一回、業者さんにお掃除してもらっているんです」おばあちゃんの力のない声が背後から聞こえた。
「毎日の空気の入れ替えぐらい自分がやればいいんだけど、気が進まなくて」
「入ってみてもいいですか?」
おばあちゃんは力なく頷いた。
確かめてみたいものがあった。
僕がうっかり傷つけてしまった跡が、部屋の入口の柱にあるはずだ。
「あぁーあ、新築なのに」と彼女が口を尖らせた傷だ。
しかし、それは、見当たらなかった。
顔を寄せてみても、指でなぞってみても、修復されて目立たなくなったわけではないことがわかる。
ということは、彼女が過ごした25年も前のこの部屋に、僕は足を踏み入れていたわけではないことになる。
それはとりもなおさず、彼女と僕の間に接点などなく、僕が夢を見ていたとか、脳に障害でも負ったと宣告されたに等しく、乗り越えられない壁として目の前に立ちふさがった。
「さあ、戻りましょう」おばあちゃんが促した。
でも、だ。
そうだ。──でも、だ。
僕の持っていた鍵でドアが開いたのだ。これは動かしようのない事実だ。
けれど、僕の欲しい答えはどこにもない。
「お返しします」
ドアを閉め、おばあちゃんにカギを差し出した。僕が持っていたって意味はない。
「信じられない話だけど、ドアが開きましたからねぇ……」カギを受け取りながら、おばあちゃんは何ともいえない顔をした。
「あぁ」おばあちゃんは何かを思い出したように空を見た。
「首都高で、前を走る車の事故に巻き込まれたそうです。彼女が運転していたみたいで、同乗されてた男の人は助からなかったそうです。良心の呵責なのか、後を追ったのか」
玄関を入って、置き去りにしたショルダーバッグを拾って肩に掛けた。
「どうもお騒がせしました」僕は頭を下げた。おばあちゃんも腰を折ってくれた。
「なんか、ドキドキして面白かったね」詳しい事情を知らない少女は笑った。
ハッピーバースデートゥーミー・ハッピーバースデートゥーミー
少女はリュックをずるずる引きづりながら奥に消えた。
「孫なんですよ。今日誕生日で」さっきまでの固い表情に比べ、大家さんの顔は優しそうになったが、力のないそれは目の前の出来事に呆けているようにもみえた。
「おいくつですか」
「この春で大学生です」
「プレゼント差し上げていいですか」言葉は唐突に出た。
僕のバッグの中には彼女へのプレゼントが入っていた。それを、無理やりカギを開けてくれたあの少女にならあげてもいいと思った。それで決別できる。忘れることはできないけれど、終わらせることはできる。
「いや、それは」大家さんは眉をしかめて顔の前で手を振った。
それはそうだ。僕は自分の申し出が常識外れだったことをあらためて知った。
「そうですよね」
自嘲気味の笑みを浮かべた僕は、その家を後にすることにした。
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