駅ビルの壁に背中をあずけた詩織は、頬を緩めて週刊誌を広げている。
もしもこれが違う人だったら、と考えてみる。いつも隣りにいる詩織が別の人間だったら、この結果を産んだだろうかと。
『スパーク』のハッシュタグを入れることも思いつかなかった僕は、何らかの反応があるのを、ただじっと待ったに違いない。
それは取りも直さず、詩織のほうが、あの言葉に対する思い入れが強かったということにほかならない。
いや、その前に、詩織という人間がおそろしく現実的なタイプだったら──あるいは、僕が宗教を否定するのとはまったく違った形の、単なる宗教嫌いだったとしたら、夢で見た週刊誌の記事など書き起こそうとはしなかっただろう。
それを当たり前に受け止めていたなら、僕はひとりで記事を書き、内緒でアップしたかもしれない。いや、しなかった可能性だってありうる。遠慮が先立って、夢は夢で片付けてしまったかもしれないのだ。
自分が自分でいることはたやすいことではないけれど、それをゆるしてくれる相手というのは得難いものなのだろう。
僕は彼女の前で自由に振る舞ってきた。多少羽目をはずしても、やっぱりこの人すこしお馬鹿だわ、というやさしい眼差しがあった。
僕が何か言い出したときの、やれやれ、という言葉も、はいはい、というあしらいも優しく包み込む羽毛布団に似ていた。彼女は僕を、100%認めてくれた。それは、世で子を育てる母の愛に似ているのかもしれない。
どちらか片方が、あるいは双方が、相手からのストレスを強く感じている関係なら長続きはしないはずだし、居心地も悪いだろう。それを不幸な出会い、と一言で片付けてしまうのは違う気がするけれど。
過剰も不足もなく、ちょうどいい。老人の言葉が蘇る。
「さ、行こうか」
「うん」詩織はその週刊誌を大事そうにバッグにしまった。
安売りの冬物衣料はなかった。詩織の言ったとおりだった。でもいい。出かけることに意義がある。特に買いたいものはないということで、エスカレーターで一階に降りた。
その時だった。
「おじいさんだ!」
「え!?」
「電車で会ったあのおじいさんだよ!」
後ろ姿だったけど、すぐにわかった。
エレベーターに乗り込んだ老人に向かって小走りになった。けれど、休日のデパートは混み合っていてなかなか前に進めない。
老人がこちらに気づいた。間違いない。あの人だ。
ほほっと声が聞こえてきそうな柔和な笑みを浮かべた老人の姿を、閉じていくエレベーターのドアがゆっくりと消した。
ドアの前にたどり着いた。2階、3階、5階。エレベーターの表示は止まる。
どこで老人が降りたのかはわかりようもない。
「行こうよ!」詩織が上りのボタンを忙しなく叩く。僕はただ、上がっていく表示を見つめた。
「どうしたの? 追っかけようよ。2階からさ、エスカレーターでくまなく探してみようよ」詩織が地団駄を踏むように上昇するエレベーターの表示を指差す。
「いや、勘違いかもしれない」僕は詩織を見た。
「だって!」必死な詩織に申し訳ない気もした。
「詩織、夢で見たおじいさんが現れる方が変じゃないか?」
「でも──確かめてみる価値はあるんじゃないの?」食い下がるように腕をつかんでくる。
「いや、見間違いだ」
「もう!」まるで駄々をこねる子供のようだ。宗教とか神なんてものに興味も示さなかった彼女がこんなに変貌してしまった。その姿は愛おしいものだった。それはまるで、神を追い求めたかつての自分を見るようだったから。
後ろ髪を引かれるようにその場にとどまろうとする詩織の腕を引いて外に出た。ちょっとズルズル気味に。
追いかけても、老人は見つからないだろう。そう、絶対に。
ただ、エレベーターが閉まる刹那、親指を立てて微笑んだことで全ては収まった。
good! よくやった、それでいい。
それ以外の意味は探せないから。

「詩織さぁ」
「うん?」
「お前がいれば、それでいいんだ。おじいちゃんがいなくても」
キョトンとした目をした詩織が、グフっとうつむいてヒールの片足で蹴る仕草をした。
「おおばかもの」
「さ、行こう。どこかで昼飯を喰おう。詩織はなにがいい?」
「大馬鹿者め」うつむいたままの詩織が、まだぶつぶつと言っている。
「そんな名前の飯はない。詩織って、まあ前から知ってたけど、案外しつこいよね」
「どうしようもない、おおばかものだ」くふっ。
混雑する歩道の先に、天を指すようにステッキを持ち上げた老人の後ろ姿が見えた。人混みに紛れたのか、それとも消えたのか、見えなくなった老人に向かって僕は小さく片手を上げた。
「あたしが恋する人は、どうやら、とんでもないおおばかものだ」グフとかグヘとか、妙な笑いを漏らしながらうつむいて歩いている詩織に、僕は片頬で笑った。
「ラーメンにしようか。それともパスタとかの方がいい?」
「智也が食べたいものでいいよ」僕の左腕に回されていた手が輪を突き抜けて前に出た。
その仕草は、どうみても箸で何かを手繰っているようだ。
「蕎麦?」
「ううん、ラーメン」結局自分で選んだ。
「じゃあ、トッピングに指輪でも」
「あたしは煮玉子──い……い……えぇっ!?」
この先、おじいちゃんおばあちゃんになって、どっちかが先に死んでも、また、きっと、会えそうな気がした。

2月の空は冷たい空気を抱えて、どこまでも晴れ渡っていた。それでも、春の匂いが少しした。
─FIN─
春よ、来い / 松任谷由実
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