見えるものと見えないものと | 風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」

部屋を出たのは、午後の三時を回っていた。
出かけるのが遅くなったのは、雨が降るだろうと様子を見ていたからだ。

ベランダの向こうに薄日が差したころ、ショルダーバッグに文庫本と折り畳み傘を突っ込んで、先週買った自転車にまたがった。

公園で読書、と思って自転車を走らせていたけど、急きょUターンして土手に向かった。そう、川辺にも出たかったのだ。

住宅地を抜け、一方通行の道を川へと向かう。神社の前を過ぎるとき後ろから車が来た。すれ違うのもちょっと怖いほどの細い道だ。僕は速度を落とし、ぎりぎり左へと寄る。

デジカメが行方不明のままなので画像はすべて借りものです。

坂を上り橋を渡る。うん、7段変速はなかなか快調だ。対岸の桜の木に近づくと、すっかり消えていたと思っていたセミの声がした。ツクツクホウシだ。夏の終わりを告げるツクツクホウシ。

出勤途中で通る小学校の木々からセミの声が絶えていたから、僕はうれしくなって自転車を止めた。

ここに来るのは何年ぶりだろう。以前はデジカメをもって休みの日には必ず来ていたのに。

あ、そうだ。ツクツクホウシとツクツクボウシ、僕は小さいころからツクツクホウシと覚えていた。これも素朴な疑問のひとつだったけど、どちらも間違いではないらしい。



少し走って土手を降り、丸太の椅子に座って、途中の自販機で買ったプレミアムボスブラックを一口飲んで煙草に火を付ける。足元を見るとアリが数匹歩いている。たったそれだけのことなのに思わず頬が緩んでしまう。



一息ついて土手に上がり自転車を走らせた。時折差す西日が作る光と影に、建物たちがその趣を変える。トンボが一匹目の前を横切ったのを頃合いに自転車を元来た方へと向けた。

どうしようか、このまま買い物をして家に帰ろうか。
それもなんだかつまらない。滞在時間なんてほんのちょっとの間だし……。

学生たちがローラースケートの練習をしている横を通り抜ける。

あ、そうだ。スカイツリーを見ていない。このうす曇りの夕方に見えるだろうか。
僕は再び川下の南へ向かう。



見えた。薄紫に煙るスカイツリーが見えた。僕はこれが出来上がっていくさまを毎週見ていたものだった。

僕は少なからず衝撃を受けた。遠くだけれどそこに確かに存在したそれを、僕はまったく見ていなかったことに。そう、ついさっき自転車を走らせた道なのに。

見ようとするもの、聞こうとするものしか、人はその手にすることができないことを、改めて実感した瞬間だった。



僕は何を見たくて、何を聞きたいのだろう。
僕はこの世に、何を探しに来たのだろう。

走れば走るほど、遠くに群建つマンション群に飲み込まれるように、スカイツリーが沈んでゆく。

見えなくなるから遠ざかっているのではなく、それは近づいている証拠なのかもしれないけれど、全く姿を消してしまうものかもしれない。

帰り道、キンエノコロ(猫じゃらし)に触れようと左手を伸ばしながら走った。



やっぱりデジカメ買おうかな。でも、買った瞬間に、あ、こんなところに、なんて見つかりそうだな。うん、間抜けな僕ならそれはあり得る。

雲間から差す天使の梯子を見ながらそんなことを思った。僕は何物にも拘束されない素のままの僕だった。




少年時代/井上陽水


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