未来へ「epilogue」 | 風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」

彼女はこんな字を書く人だったのかと、あらためて思った。淡いブルーの便せんに書かれたそれは、几帳面で柔らかな文字だった。その筆跡のひとつひとつを目で追い、そこに込められた思いを読み取ろうとした。


「パパ、おてがみ?」
「ん?」
「それ」息子の健介がおもちゃのラケットで僕の手元を指した。
「ああ、そうだよ」
「誰からの?」
「パパのお友達だよ。遠野っていう人」
「おともだち?」
「うん」
「パパの?」
「そうだよ」
ふぅん。

封書に書かれた日付を見た。200×年5月21日。
僕の誕生日だった。この四日後、彼女はビルの上から飛んだ。

あの時もそうだった。彼女の自殺の原因を思いつく限り考えてみたのだ。
この手紙を書く二週間ほど前に、あの医師との忌まわしい出来事が起きている。けれど今読んで考えてみても、それとこの手紙の内容は、どうにも結びつかない。だからというわけではないけれど、それが彼女を死に追いやったとは思えないのだ。

最終最期、何が彼女を死のダイブに誘(いざな)ったのか僕には分からない。
彼女が戻れない足場から空中に飛んだとき、何を捨てたのか、何を得たかったのか、何を願ったのか、何を残したかったのか。
僕は理解できないまま、心に無理矢理折り合いを付けて、ここまで生きてきた。

なぜ彼女が生きることを拒否したのか、あのときの僕はそれを追求しなければならない義務を負っているとすら感じた。けれど今は、触れずにいることが彼女を心安らかに眠らせることのようにも思える。
心療内科医が口にした言葉は、死人に口なしの類だったのか、それとも、真実だったのか。あるいは彼女の、嘘だったのか。
僕は訊いた。それは先なのか後なのかと。男は後だと答えた。彼女は、自分自身をそんな女に貶(おとし)めてみせたのか。だからこんな過ちは何でもないのだと伝えようとしたのか。

今になって振り返れば、お互いとても幼い男女だったけれど、初めて会ったときの彼女に、僕は永遠に追いつけそうもない。僕の中で彼女はずっと、笑顔の素敵な女性で居続けるのだろう。
だからこそ、三つ年上の生身の彼女が抱えた負い目も寂寞(せきばく)も、僕に理解することは叶わないのだろうけれど。

婚約者がいたのよ。
彼女は少しだけ疲れた笑みを見せたことがある。僕はそれ以上訊こうとはしなかった。
すべてを受け入れて丸ごと愛してあげる余裕を、僕は持っていなかった。そんな話を受け入れるスペースも、受け止める寛大さも、あの頃の僕の心にはなかった。
あえて口にしたからには、訊かれればすべてを話すつもりでいたはずなのに、いや、話して笑い飛ばしたかっただろうに、僕はそれをしなかった。青春の一途さと頑なさは、一面残酷ですらある。

二人に流れた気まずい沈黙の後、彼女は笑った。それ以来ミッキー・マウスが彼氏なんだよと。

僕もそのうち、彼女の希望である結婚に応じるだろうと、何疑うことなく思っていた。大学を卒業して就職をして、収入も安定して、そして、ある程度の蓄えが出来たら、と。
けれど、迂闊にも僕はそれを口にしたことがなかった。あえて言葉にしなくとも、ずっとそばにいるものと信じていたから。

「パパのお友達はどこに住んでるの?」
「うーん。何というか、パパを置き去りにして遠くに行っちゃったんだよ」
「ふぅん。健介はね、遠くに行かないから大丈夫だよ」慰めるように何度か頷いた健介に僕はにっこりと笑いかけた。
「ありがとう」
「どういたしまして」健介はラケットを振りながら台所へ走った。
息子は僕に似たはにかみ屋ではなく、妻に似てしっかりとした男の子だった。

もしもあの日あのとき、彼女が鳥になろうとしなければ、僕たちの今はどうなっていたのだろう。子供が生まれていたら健介のように幼くはなく、中学生ぐらいなのかも知れない。
家事や子供のお弁当作りに追われながらも、彼女は僕のそばで、あの弾けるような笑顔を見せていただろうか。
今年で不惑の40歳を迎えたはずの彼女は、やはり、僕の追いつけない大人だったろうか。

手紙に書いてある、彼女のひとつのお願いとは何なのだろう。
僕に対するお願いなのだろうか。それとも、彼女の過去の蹉跌(さてつ)、あるいは内面の葛藤(かっとう)の吐露だったろうか。それでも愛してほしいと綴ったのだろうか。

僕はその手紙の先を読まずに、元あったように丁寧に折りたたみ封筒にしまった。なぜなら、僕の愛した遠野美樹子のお願いを聞いてあげることは、もうできないのだから。

彼女は静かな寝息を立てている。少し長いまつげと、触れるとちょっとひんやりとした滑(すべ)らかな頬で、僕の記憶の中に眠っている。
起こさぬように僕はそっとその肩を撫で、優しくとんとんと叩く。目覚めて悪い夢を見ぬように、深く静かに眠らせる。

ごめんね。そして、手紙ありがとう。僕はつぶやいた。

─FIN─


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