─200×年春─
「大変申し訳ないことをしたと思っている」
コーヒーカップに手を伸ばしかけた男は、それが空であることに気づき、やり場のない手を握りしめテーブルに乗せた。
「申し訳ないというのは、僕に対してですか」僕は足を組み、椅子の背もたれに背中を預けた。
「それとも……」僕の声に促されるように男がこちらを見た。
三人の間に、軋みも負い目も不自然さも呼び起こさない彼女の固有名詞を探しあぐねて、僕は沈黙に漂った。どう考えても、これはやはり自然ではないのだけれど、彼女は彼女でいてほしかったから。
やがてその無音に耐えかねたように、男が口を開いた。
「いや、どちらにかもしれない」
無造作にかき上げたようなヘアースタイルに銀縁めがねを掛けたその男を見据え、美樹子はこんなタイプが好みだったのだろうかと、複雑な思いを抱いた。それとも、僕とは違う何かをこの男に求めたのだろうかと。
目の前にいるのは心療内科医だった。自律神経のバランスを崩した遠野美樹子が通った病院の医師だ。
「したんですよね」
僕の質問を拒否するかのように窓外に目をやった男は、横顔を見せたまま言葉を発した。
「いや、そういう表現が適切かどうかは」
「表現方法で事実が変わるんですか?」
僕の語気の強さに、諦めたようにテーブルに視線を戻した男は、めがねの奥で忙しない瞬きをした。
「したんですよね」
男は困惑の表情を浮かべながらも、小さく頷いた。
「医師として不適切な行動だった。だから最初に謝ったはずだ」
「どこか責任逃れをしているように見えますよ」
「いや、そんなつもりはない」男はどこか不服そうに、中指でめがねを押し上げた。
「僕が訊きたいのは、そういうことではないんです」僕は片手を上げてコーヒーのお代わりを注文した。
「責任を問うているのではないんです。なぜなのかを知りたいんです。どうしてあんな行動を取ったのか、それが知りたいんです」
「それは私にも分からない」
「自分が引き金になったとは思わないですか」
「それも分からない」男は煙草に火を付けた。
「ひとつだけ分かっているのは」男は声をひそめるように身を乗り出した。
「何です?」
「彼女は誰とでも寝る女だったということ」
「あんた、何を言ってるんだ!」
空のコーヒーカップが落ちて派手な音を立てた。
「何を根拠にそんなことを言ってるんだ!」
ウェイターが箒とちりとりを持ってやってきた。
「すみません」僕は謝った。
「いえ」じゃらんじゃらんと音がしてコーヒーカップがちりとりに収まってゆく。
「あなた、自分が何を言っているのか分かっているんですか」僕は声を低くした。
「彼女がそう言ったんだよ」
「誰が」
「彼女、遠野美樹子が」
その引きつったようないびつな笑みは、開き直ったとしか思えなかった。
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