1年間続けて参りましたJ-POPレビュー「佐藤良成のCD原人」は今回で終了です。慧眼の編集者様、単行本化や原稿のご依頼お待ちしております…。
ねえタクシー この街で一番
綺麗なところへ 連れてって
前野氏のアルバム『ハッピーランチ』の1曲目「ねえ、タクシー」の出だしの1フレーズです。たったこれだけの言葉で、この言葉を発したのが女で、けばけばしい格好に派手な化粧、何かに傷ついているか、もしくは少し自棄になっていて、時間は夜、それもわりと遅い時間、雨が降っていて、繁華街を流すタクシーを捕まえたところ等々と、聴き手の頭に情景が広がり、主人公の像が浮かび、物語が始まっていきます。
たったこれだけの言葉でと書きましたが、実は、演奏やミックスといったサウンドによる力も大きいように思います。湿った音色で叙情的なコードを奏でるピアノ、歌に遠慮することなくリズムを刻み曲を押し進めていくドラム、控えめながら艶やかな低音を効かすベース、バックコーラスにかかる深いエコーなど、それらのサウンドが一体となって、雨に濡れた夜の繁華街の空気や、賑やかさに隠された哀しみ、主人公の心模様を、巧みに描き出していると思うのです。そして、おそらく前野氏による演奏と思われる、少しチューニングが甘く、細くて貧相な音色のエレキギターの響きも、このバンドのアンサンブルの中では、街の猥雑さや心のささくれた感じを演出する的を射た舞台装置に聴こえます。
曲の最後の歌詞、タクシーの運転手が彼女に返すひと言が実に気が利いていて素晴らしいのですが、書いてしまうとネタバレというか興醒めなので、そこは聴いてのお楽しみということで。
言葉には意味があり、意味があるから言葉を選んで使うわけです。意味のない音の羅列を他人に向って発することは、あまりありません。何を言っているのか聞き取れないということはありますが、大抵の場合、本人は何らかのメッセージを持って発言しているつもりだったりします。
しかし言葉は音でもあります。そして歌においては、言葉はメッセージである前に、まず音だと思います。歌詞の意味を一々追わなくても音楽を楽しむことはできるのですから、音楽においてはメッセージよりも音の方が優位だと俺は思っています。一昔前に流行ったスキャットマン・ジョンのヒット曲を思い出してもらえば、わかりやすいかと思います。
言葉が音なら、歌詞は音の連続です。どんな音を選ぶかで、歌がどんな風に聴こえるかが変わります。はっきりした音もあれば、くぐもって聴こえづらい音もあります。母音の中だと「あ」が一番口が開くのでオープンな響きになりますし、子音では「カ行」「タ行」「ラ行」や、その濁音版の「ガ行」「ダ行」は、舌の動きと相まって打楽器のような弾ける勢いのある音になります。口をすぼめた「う段」や、子音の「な行」はその逆で、その両者を合わせた「ぬ」や、口を閉じて発音する「ん」などは、聴こえづらいくぐもった音になります。
ウルフルズって、からっとして明るい曲が多いなと思って歌詞を見てみたら、サビなどの大事な箇所では、前述の「カ行」「タ行」、濁音、そして「あ段」のオンパレードでした。「ガッツだぜ」「バンザイ」などはまさにその代表例ですが、個人的に一番好きな『借金大王』にはびっくりしました。
サビの「貸した金 返せよ」で、抜けて聴こえてくる音は「か」だと思います。試しにその「か」の音を抜き出してみると、「かッッかッかッ」という歯切れの良いパターンが現れます。文字だとわかりづらいですが、リズム&ブルースでよく使われるリズムパターンです。そして、それとよく似たベースラインが追っかけるように続くので、さらにご機嫌に聴こえます。
しかも、「貸した金 返」までは、高さも長さも同じ音が連なっているだけの実にシンプルなメロディーです。要所要所に「か」を置いていくだけで、ここまで効果的で印象的になっているのです。
ちなみにこのウルフルズの新作、初回限定ボーナスディスクとして、この『借金大王』も収録された10曲入りのベスト盤がついてきます。同じ日にニューアルバムを発売したこちらからすると、こんな強豪と競わなくてはならないのは、はなはだ辛いものがあります。
曲を作るときはメロディーが先か、歌詞が先か、それとも両方同時かと訊かれることがよくあります。俺はいつもメロディーが先で、それに合わせて歌詞を考えます。
メロディー先行の例として、皆さんご存知の『森のくまさん』を挙げてみます。歌いだしを思い出してください。「あるー日」「森の中」「くまさんに」「出あーった」という4つの短いフレーズでできています。これらは一見すべて違うメロディーラインのように聴こえますが、実は、タラララという1つのパターンを、音程を変えて繰り返したものです。このようにメロディーというのは、まず基本となるフレーズがあって、そのフレーズを、伴奏のコードや音程を変えながらも、音数、リズムは踏襲しつつ繰り返して進んでいきます。おそらくそれが気持ちいいからなのでしょう。そしてその反復があるからこそ、その後、別の新しい展開が来たときに、突き抜けた開放感と、高揚感を聴き手に与えるのです。もちろん『森のくまさん』のように1つのフレーズがとても短く、反復がわかりやすい曲ばかりではありませんが、クラシックにしろJ-popにしろ、メロディーありきの曲にはそういう仕組みがあります。
それに対して、歌詞ありきで作るのでは、まずメロディーと歌詞の主従関係が違います。メロディーの音数、抑揚、長さは、歌詞に支配されることになります。柴田聡子氏の『責めるな!』という曲は、思うに、まず「元ロックスターを責めるな」というひと言から始まったのではないでしょうか。それが「元」と「ロックスター」と「責めるな」という言葉に分かれて、連想ゲームのように意味が別の意味に繋がり、それが転がっていくことでできた歌詞に、節をつけて歌ったというふうに聴こえます。行ごとに詞の文字数が異なるため、フレーズに規則性がなく、自由律俳句のようです。
俺はそういうふうにして曲を作ることがないので、とても不思議に面白く聴こえます。間違っていたらごめんなさい!
世の中には様々な楽器がありますが、音に関する二つの点からその特性を考えてみます。
一つ目は音程。ピアノやギターやリコーダーなど、音程がほぼ固定されているものと、バイオリンや三味線、トロンボーンのように耳で聴きながら手元を調整して音程を取るものです。前者がド・ド#・レ…といった音階にあらかじめ区切られているのに対し、後者は音階に縛られず、その間の音を出すことができます。
もう一つは音の伸び方、もしくは音量の変化とでも言うべきもので、減衰音と持続音の二種類があります。叩いたり、はじくことで音を出す楽器は、音は常に最初が一番大きく、徐々に減衰していきます。ピアノやギターなどがそうです。それに対し、バイオリンのように弓で擦って弾く弦楽器や、管楽器、アコーディオンなどは音が持続します。そのため、小さく弾きはじめた音を伸ばしながら大きく鳴らしていく等、一つの音の中で音量に変化をつけることも可能です。
矢野顕子氏の歌声は、テルミンや二胡、ミュージカルソー(のこぎり)に似ていると思っていましたが、あらためて聴いてみて、囁くような小さな音からふわっと急に大きくなるところや、音程が上下するときに通過音が目立つところが、そう思わせていたのだと気がつきました。冒頭の楽器の音のタイプで言うと、人の声は、音程の面でも音の伸び方の面でも後者のタイプということになりますが、その中でも特に矢野氏の歌声は、バイオリンなどの伝統的な西洋楽器にくらべ、音程・音量の変化がより急で、かつ無段階で連続的に聴こえるテルミンや二胡に似ています。
なぜ矢野氏があのようなクセのある歌い方をするのか考えていて、ふと思いついたのは、矢野氏はピアノの弾き語りが基本であるということです。前述のとおり、ピアノは鍵盤によって音程が区切られ、かつ減衰音の楽器です。そのピアノでは絶対に出せない音を、自分の声で出し、そのコンビネーションで音楽を作ろうとした結果、あのような歌い方になったのではないかと邪推しました。