峯岸みなみは誰に謝ったのか | シシュフォスの休息

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『婦人公論』の峯岸みなみに対するインタビュー記事を読んでみた。

書店では手に取りにくい雑誌だが、帰省先からの帰りの列車の中で読めたので好都合だった。


それにしても、彼女の「謝罪会見」は不思議な会見だったと改めて思う。

「交際報道」に関する会見だったはずなのに、交際についての事実関係や相手への思いが語られることもなければ、ファン(相手のファンも含めて)へのメッセージもほとんどなく、ひたすら、AKB48が自分にとってどれ程大切な存在であるかが訴えられていた(という印象をうけた)。


今回のインタビュー記事を読んでもその印象に変化はなかった。


「AKB48に恋愛禁止、というルールが明確にあるわけではありません。(中略)メンバー間の不文律として恋愛禁止というのはある。」

交際自体に罪の意識を感じているわけではないようだ(ただし、この言い回しは、謝罪会見後峯岸を擁護する意見の中でよく使われていたものなので、以前から彼女がこのように認識していたのかは、多少の疑問が残る。ただし、「恋愛禁止は鉄の掟」という認識と比べると常識的で健全だろう)。


「とにかくAKBをやめたくなかった。一瞬でもやめようと思っていたら、髪を切れなかったと思います。」

彼女にとって、AKBをやめることこそが罪だったのだ。そして、謝罪の対象は「私の夢」なのだ。


よく、AKBのメンバーは普通の子、と表現されることがあるが、明らかに普通ではない点がある。

それは、この閉塞感の漂う社会の中にあって、「夢をもつ」ことを許されるという特権を有しているということである。しかし、それは、彼女たちを苦しめることもある。

『AKB白熱論争』の中で、中森明夫氏が彼女たちは「夢をもつ」という罪に対する罰として総選挙という裁判にかけられている、という趣旨の発言をされているが、「夢をもつ」ことが罪であるならば、「夢を無駄にしてしまう」ことは、償う方法がわからないほどの大罪ということになる。


頭を丸めてまで、謝罪してた対象が「夢」である以上、彼女が総選挙に立候補するのは必然であった。


ところで、この雑誌の読者層が峯岸みなみの心境に関心があるとは思えないのだが、このインタビュー記事は、誰に対してのものだろう。