答え | 水底の月

水底の月

恋の時は30年になりました 

2人の違い。

 

事務局長は「自分を介して私を読もうとした人」

 

雅治は「自分を介さずに私を理解しようとする人」

 

 

相手を読めるから相手を全部わかってる、わけじゃない。

 

テストに出ます、ココてへぺろ



 

日々様々なことに思い惑う。だから支えになる誰かを欲し、その相手に映る自分を見て自分を考える。


て感じに、自分のことすら完全に理解できていないのに、どうして相手のことを「私は読める、わかってる」なんて言えるの?

・・・あの人のことをそう思いたい自分、があるだけだと思う。

 

事務局長とはそっくりな加減が強すぎたから、わかる前にわかりあえていると勘違いした。互いを理解するというプロセスをすっ飛ばし積み上げようとしなかったから、砂上の楼閣は波にさらわれた。。

「sanaの心を読むことが上手な事務局長」から私が手を離した理由はこんなところ、かな。

 

 

 

雅治とはね

LINEは月イチ、電話は皆無。逢うに至っては年イチ単位。もう・・・修行やん笑い泣き

 

 

それでも心は雅治に添おうとする。なぜ忘れられないと叫ぶ心に引っ張られ身体もまた雅治を求めた。結婚した。もう忘れた。それでも時を重ねるほどに深くなる。

 

身体を重ねたら、抱えた傷は癒えていく。でも離れた後の懺悔のような思考は堂々巡りを引き起こした。

 

手っ取り早く「やっぱり身体だけの関係?」と思ってしまいそうになったりもして。

 

 

 「こんな距離があっての身体だけなんて、ここまで来てもうあり得ないでしょ。まだ何を言ってるの」

 

 

去年、雅治はそう呟いた私の不安を斬り捨て言葉にした。私が二度と問わなくてもいいように。

 

 

雅治にしたら、私に特別なことをしているとは思っていないだろう、けど。関わりで自らへの肯定は少しずつ深まり、そんな繰り返しは安心感に繋がる。食い違うことは怖い事ではないと解ってくると、距離や時間が心の闇にはならなくなっていく。

 

日常生活の色々には感情が乱高下させられる。当たり前だ、そうやって生きていくものだから。

ただ、感情の揺れは疲れる。だから雅治との間に「日常」を挟むことに少し抵抗があるのかもしれない。修行な環境がある意味私にとってはラクなのかも。

 

 

雅治は私にしてくれた事を「そうだったっけ?もう忘れたよ」とあまり覚えてないそうで。

けど「前にこんなことを言ってくれた」とか「お守りを送ってくれたことがあったね」と、私のした些細なことは覚えていて「○○してくれた」と言う。

 

こんな視点は似てるのかもしれない。

 

 

私は誰かに何かした事を極力忘れるようにしてる。

「こんなに○○してあげたのに」って思うのイヤ。お金や手間をかけたとしても、自分がその時そうしたかったからした。見返りを求めたら、したことがくすんでしまいそうな気がする。

 

 

 

私にとって雅治は、ただ在ればそれでいい存在

 

 

なんとなく見えた「どうして僕なの?」の答え。

 

 

 

それが解ったら・・・どうする?

 

どうもしない。

 

 

にんまり笑って

LINEは月イチ、電話は皆無、今度はいつ逢うのかな、の日常に戻るだけウインク

 

 

 

 

 

 

 

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