「切るよ。急ぐから、じゃ」
「待って!」
「悲壮な声を上げない。死にに行くわけじゃない」
「ついたら・・・施設についたらまず電話してください。必ず。無事に着いたって」
「着いたらすぐ仕事に取り掛かる、そんな時間はないよ」
「じゃ、今から私も市内を突っ切って病院に向かいます。私の車四駆ですから」
「はいわかった、わかったからもう。連絡する、わかった。ったく、じゃじゃ馬が」
事務局長の電話口の声の勢いが跳ね上がる。
今だったら3日前くらいから大雨予報が出る。
警戒警報だ避難指示だと日本のどこで豪雨災害が起こったとしてもまるで隣町のことのように情報は入ってくる。
この頃はそうじゃなくて。ただ空には延々と稲光が飛び続け、バケツどころかプールをひっくり返したような大雨が降り続いて。
TVは延々と通常の番組だったし、ラジオさえ正確な情報は伝わってこなかった。
電話が通じない、停電が起こる。あたりは真っ暗、になったところも多かった。
夜間の雨だったから、多くは何も知らずに浸水に襲われ、それらの水位は見る見るうちに上がったという。
そして夜が明け、朝の日の光を浴びてはじめて、びっくりする状況であることを知る。
マンホールのふたが空き歩いていた人間が数人吸い込まれたとか、逃げ場を失った高齢者が家の中で溺死したとか、何より、どこがどれだけ浸水しているのか、通ってきた人見てきた人、そんな口伝えの情報が先でそれらはまた大変な錯綜っぷり。
正しい、とされる情報の一端は、やっと夕方届いた朝刊で把握することになる。
秋雨前線、とよく聞く単語がこんなに大雨をもたらすなんて全く意識に無い頃。
その日の大雨は年間雨量の3分の1をたった一晩で降らせた。後に「この地域、100年に1度の豪雨災害」と言われたものになる。
その豪雨の夜
結局、どんなに待っても事務局長から「着いた」の連絡はかかってこなかった。
そのかわり、通ると言っていたトンネルが浸水と滑落、周りからの落石で通行止めという情報が朝になって流れてきた。