リアルタイム20190816 | 水底の月

水底の月

恋の時は30年になりました 

先生との関わりは言葉や感情だけでは完結しない。肌を合わせることは呼吸するかのように当たり前になっている。

 

その繋がり、を必要としているのは先生だけでなく私もそう。相性、ということも含めて自分の中のそれを認めるのにずいぶんかかったけれど、自分の中の情欲にももう抗わなくなった。

認めてしまうというのは楽になることなのだと、つくづく思う。

 

 

 

「そんなに遠く離れている気がしない」

それは、距離のことなのか気持ちのことなのか、はたまた。
 


近くて遠い。既婚という日常のなかで単独で県外に出る理由を作ることはなかなか難しい。何かの機会を作らないと出られなくなってからは距離以上に遠くなった。

 

 

でも、まあ・・・そんなものだと思う。

 

距離に反比例して逢う時間は短い。でもそれも今に始まったことじゃない。

 

 

 

 

もし、もっと早く出逢えていたら。

もし、同級生か3つくらいの歳の差だったとしたら。

もし、私が地元に帰らずにこの地で働くことを選択していたら。

 

 

もし、もし、もし・・・・・

 

 

婚外恋愛という関係の場合、そして女性ならば何度もそういう風に思うことは当たり前なのかもしれないけど

 

 

 私は自分で選んで歩いて来た今でいい。

 

 

だって

 

 

もし、もっと早く出逢えていたら

私は、まだ若かりし先生の魅力に気づくことなく通り過ぎただろうと思う。

 

 

もし、同級生か3つくらいの歳の差だったとしたら

同じクラスの人か先輩との恋愛は、私の性格上難しかっただろうなと思う。

 

 

もし、私が地元に帰らずにかの地で働くことを選択していたら

きっと短期間でそれもハッキリとした別れかたで終了していただろうと思う。

 

先生と私と。深層はどうあれ表層の性格は真逆なところが多い、たぶん。

時を重ねた今では、私に無い考え方や経験を持っての視野、つまり「違うこと」がとても大きな魅力だけれど、卒業したての、とんがりやで寂しがりな私にそれがわかったかどうか。寂しさからの推測は事実を思わず歪曲し、食い違いが埋められなくなる、そんな恋になっていたような気がする。

結果、今のように学生時代を懐かしく思い日々の指標にすることもなかっただろう。

おーお、色々失っていただろうな、離れといて良かったよ、なんて。

 

 

 

もしもあの時、で時をさかのぼるのはあまり好きじゃない。

 

ただ違う選択をする分岐点はいくつもあったのにと思うと、いろんな偶然が重なっての今がなんとも不思議で。

 

 

 

学生と指導教官というはじまりだったけれど先生は卒業するまでそんな気配すら見せず、だから溺れずにいられた。先生よく待ったなと思うし、離れることが解っていながら私と関係を始めようと動いたことは私にしたら今でも謎。私にとっては支えになったけど遠距離って先生にメリットある?って。

あんまり深くは考えてなかった、おそらくそんなとこだろうなとは思うけど・・・聞いてももう忘れたよと笑うばかりで教えてくれません。

 

歳の差があったから、同い年に言うような話が無かったかわりに私の年齢や視点では見ることのなかったものを見、感情の揺れ動きも含めて得たものは大きかった。見上げるばかりの差をいつの間にかそれほど感じなくなってきたのは歳を重ねたせいだろうけど。


距離があったから余計に忘れられなかったし、また距離があったから日常を壊すことなく暴走せずにいられた。

 

 

 

 

そしてたぶん

 

この恋が無ければ、パートナーとの結婚という選択肢を選ぶこともなかっただろう。

 

 

 

 

 

 

人生は逆説的で。

普遍的で、そして愛おしく、面白い。

 

 

 

そう思えるのに25年かかった。

かけてもいい時間だった、と今は思うけど先生はどうかな。

私におおいに振り回されて・・・ま、それは今でもか。

 

 

 

結局、私たちの関係にはこの遠距離W婚外という形が最良。これは私の結論ですけどね。

 

 

 

定量的評価ではなく定性的評価な解析となりましたが、以上、終わり😁

 

 

 

 

タイムスリップして。

学生時代のsanaちゃんに今を見せたらどう言うだろう。もし、のついでに。

 

・・・試験勉強、は間違いなく一切手につかなくなるでしょうねー。

 

 


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