あの日のことは、
今でも鮮明に覚えています。
二年前、長男が
この世を去りました。
突然の出来事でした。
「どうして私より先に?」
「なんで息子が?」
お通夜や葬儀
悲しみも、怒りも、
涙も出ませんでした。
次々とやってくる手続き。
役所、保険会社、銀行、
そして遺品整理……。
自動的に動くロボットのように、
淡々とやるしか私に
「あんたは冷たいね」と
母親から言われました。
だけど、そんな言葉にも
反応できる心の余裕も
ありませんでした(泣)
でも、ふとした瞬間に
込み上げてくるんです。
お母さんって呼ばれること、
もうないんだな
1人になると、
涙が止まりませんでした。
仕事上でも誰にも言うことなく
ごくごくわずかな知人しか
今も言ってはいません。
――人生って、本当に
“有限”なんだなと。
どんなに真面目に生きていても、
いつどうなるかなんて
誰にも分からない。
息子の死は、悲しみだけじゃなく、
“生きること”と“終わり”について
真剣に考えるきっかけをくれたのです。
それまでは、「終活」なんて言葉は
まだまだ先の話だわくらい。
でも、息子を見送る立場になって
初めて分かりました。
残された人が
どれだけたいへんかを。
書類一枚、通帳ひとつ、
ちょっとした手続きのたびに
本人しか知らない情報が、
こんなにも多いなんて…
私が死んだあと、
子どもにこんな
苦労をさせたくない!
それが、私が“終活”に
真剣に向き合うきっかけでした。
最初は、エンディングノートに
「葬儀はこうしてほしい」
「保険はここに入ってる」
「銀行口座はここ」
など、書くことから始めました。
すると、少しずつ心が
軽くなっていくのを感じました。
“死の準備”をしているというより、
“安心を整えている”感覚。
息子に
「ありがとう、ここまでやったよ」
と胸を張って言えるような
生き方をしたいと想ったのです。
それからの私は、
資産運用だけでなく、
認知症や介護、信託や相続なども
再認識していきました。
金融の仕事をしてきたとはいえ、
いざ自分の身に何かあったとき、
誰が何をどうすればいいか――
それを
自分の言葉で
整理しておくことが、
どれだけ大事かを
痛感したんです![]()
不思議なことに、
終活を始めてから、
前よりも「生きること」に
前向きになれました。
“死を考えること”は、
“どう生きたいか”を
見つめることなんだと
気づいたからですね。
たとえば、
「あと10年働くなら、
どんな仕事をしていたい?」
「もし明日が最後の日なら、
誰に何を伝えたい?」
そう自分に問いかけるたびに、
今まで見えなかった
“本当の幸せ”が
少しずつ見えてきました。
息子を失って、
私の中の“当たり前”は
正直、壊れました。
でも、その壊れた先に、
本当の“生き方”が
見つけれた気がします。
命は有限
だからこそ、
今を丁寧に生きたい。
そして、残される人に
“安心”を遺したい
――終活とは、
愛のカタチなんだと。
自分の人生を最後まで
自分らしく生き抜くために。
そして、大切な人が
泣きながら困ることのないように。
息子が教えてくれた
この気づきは、
私の中で今も
生き続けています。
だから今、私は声を
大にして伝えたいんです。
終活は、死の準備ではありません。
自分らしく生きるための準備です!
そう言えるようになるまでには、
たくさんの涙を流しました。
でも今なら胸を張って言えます。
私は今、息子と一緒に
“生きている”のだと。

