ディアンジェロ→高野文子 | なるべく猟奇に走るなWHO'S WHO

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ジャンルは主に、映画・音楽・文藝・マンガです。
僕の好きな人物、作品をWHO'S WHO形式でご紹介します。



昨年、12年ぶりに発売された高野文子待望の新刊「ドミトリーともきんす」ですが、これくらいの

インターバルはファンとしてはもう慣れてる(笑)わけで、彼女の手による装丁や絵本を見ることで渇えを癒していた

状態だったんで、とりあえず出してくれただけでも幸せなんでございます。 なにしろ、マンガの単行本としては、

商業誌でのデビューから35年目にして、これでやっと7冊目!今まで何やってたんだよー、と言いたいのは

やまやまなんですが、インタビューなんかを読むと、彼女としてはサボってたわけでは全然なくて、あーでもない

こーでもないと、絶えず描き続けていたのだ、ということらしく、それを聞くと、その密度、完成度の高さも納得です。

それにしても、今回のこれが読書案内、しかも科学者の著作、というのには意表を突かれましたが、そもそも

紹介されるのが、「文章の書ける」科学者たちなのであって、人選を見て、僕は思わず「我が意を得たり」と

膝を叩いたものでした。僕も、科学者、とりわけ自然科学のひとの書いたものが好きで昔よく読んだんですが、

共通して言えるのが、世間の垢にまみれていないというか、とにかく明晰で清新、ということでしょうか。これは

いかにも彼女らしいチョイスと思われました。風通しの良い、最適の読者案内ではないかと(ちなみに登場人物の

中では、牧野富太郎君がいかにも昭和の漫画キャラでかわいい)。



で、読書といえば、これの前に出た「黄色い本」のタイトル作ですが、地方の

(彼女の出身地である新潟か)平凡な一高校生である少女が、おそらくたまたま

「チボー家の人々」を手にし、それをゆっくりと、時間をかけて読んでいる

わけです。彼女自身は今、進路を考える時期にいて、将来を選択する岐路に

立っている。そんなときに彼女はこの本に出会い、登場人物たちに感情移入して

いく。彼女の空想は、しばしばフランスへ飛び、ときに登場人物たちとの会話に

なったり討論になったり。そして彼女は、ジャック・チボーやその仲間たちに

励まされながら社会へ巣立っていく・・・

一読、僕は感動のあまり思わず涙腺が決壊しました。本来、読書というのは

こういうものではなかったのか、俺はもうこういう風に本を読むことはできない

のかも知れんなあ、という、一種哀惜の念が湧いてきたのでした。今のところ、

僕にとってのベスト作はこれです。

お話もさることながら、この作品は、もともと絶大な評価を得ていた彼女一流の

画面構成の、ひとつの到達点ではないか、と思いました。いつも通りの自在で

ちょっと信じられない構図の取り方はもちろんなのですが、かつての緻密さから

進化(深化?)した末の、力の抜けたその描線。デッサンでなくクロッキー的に正しければそれでOK、という感じです。

そして、これまたいつもの微視的な細部の描写(「4月にバスで」のファスナーとかも面白かった)。本の活字を

そのままひとコマにするのなんかすげえよなあ。

絵の話になったところで、こっから先は、その驚嘆すべき絵について、を

中心に書いてみます。最初期のころは、やまだ紫とか、盟友である

さべあのま、あるいは本人も述べているように萩尾望都なんかの

影響が顕著にみられますが、デビュー後すぐに、「高野調」ともいうべき

絵柄になります。先ほどもちょっと書いたように、高野調のひとつの大きな

特徴として(同じころに登場し彼女とともに「ニューウェイブ」と称された

大友克洋にも言えることなのですが)、とにかくこれまでのマンガでは

考えられなかった構図を描いてしまうということが、まずあります。まあ、

どのコマを取り上げてもいいんですが、たとえば、ある意味彼女の評価を

決定づけたといえる作品「田辺のつる」の、ラストの階段のシーン。意図的なパースの歪みがすばらしい。


また、問題作「奥村さんのお茄子」のメガネ越しに見る街の風景。

いったいどうやればこういう構図を思いついてしまうのか?そうかと思うと

上田トシコ的な絵柄に変化した、といしかわじゅんがいみじくも

指摘した「ラッキー嬢ちゃんの新しい仕事」では、あたかも

ヒッチコックのような映画的構図です。とにかく彼女はこと絵に関して

野心的・実験的なのですね。他にも、「病気になったトモコさん」

で、たくさんのオブラートが宙に舞うところとか、木下恵介的な大傑作

「美しき町」における見開き2頁の町の全景、夫婦の食事シーンの

ふたりの顔のアップなど、枚挙にいとまがないですけれども、もうひとつ

構図よりも、彼女の登場以降あらゆる同業者が影響を受け、取り入れるに至った技法があります。それは、アミトーンの

画期的使用法でした。それまでスクリーントーンは、主に柄として使用されていたのが、彼女の場合、トーンをあえて

枠で囲まないことで、影の輪郭のにじみやぼやけのような、リアルな陰影を表現します。重ね貼りもあり。


たとえば、これも大好きな作品「玄関」における波の描写など当時ア然

としたのを覚えています。他にも「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」

で、夜の車窓からの光が流れる街の風景をトーンで大胆に描写するとか

とにかく驚嘆でした。当時の日本でいちばんアミトーンを使っていたのは

彼女だったに違いありません(ちなみにこの後、反動のように、画面が

「白く」なったりもしましたけれども)。こういった技法は、まあコロンブスの

卵と言えなくもないのですが、とにかく当時の業界は大騒ぎになって、

「いったいあれは何番のトーン使ってるんだろ?」みたいな話で持ちきり

だったとか。今ではPCで簡単に陰影がつけることができたり、ほとんど

一般化していますが、技法ということでいくと、唯一の長期連載であった

「るきさん」では、色使いにおいても、彼女が非凡な才能の持ち主で

あることをわれわれに見せつけてくれました。掲載誌が「Hanako」だっただけに、楽しくなごめる内容ではあるのですが、

僕は毎回毎回、「ヤバいなあ、すげえなあ、よくやるなあ」と脱帽のしっぱなしでした。


とまれ、アミトーンだけでなく、彼女の後進に与えた影響は圧倒的で、とりわけ市川春子奥田亜紀子

一條裕子など、あからさまというか、ほとんど高野チルドレンといっていいかもです。真のオリジナリティとは、

「いかに真似しやすいか」ということなのかも知れません。それにしても、次のやつはいったいいつになることやら・・・




さて、次回は「ドミトリー・・・」でも取上げられていたこの人いってみようかと・・・