元少年A | 魔王の娘

魔王の娘

タイトルと中身はあんまり関係ないかも。

初めに書いておくと、ゴシップ性はないです。
世間が騒がしかったので、整理がてら時間空けました。

判りきっていたことですが、週間文春の記事と写真からほぼ現住所など割り出されてますね。それについては、もう多くのサイトで明かされているのでそれらについては直接触れません。必要ないですし。

あえて今書くのは、当時の事件を知ってたり「絶歌」を読んだ身としての個人的所感と考えをまとめたいというのが趣旨です。

まず、今回の文春の取材に関して賛否分かれてますが、これについては多数決で決めるものでもなく、恐らくは賛成意見が多いでしょうけどそれが本当に正しいのかっていうのは誰が決められるものでも答えもありません。
ただ、個人の意見はその人のものなので、私の客観的な主観で言うならば是になります。

理由については、事件が起きた際には人間の怖さだったり悲しみなどや、個人差はあってもあまりに痛ましい事件だったので傷ついた人も少なかったでしょう。
少なくとも、まだ幼かった私はそうでした。

人間が生きていくための機能として辛い記憶を忘れて沈殿させますが、元少年A(以降A)は軽率にもそれを本の出版という形で思い出させ、その古傷を抉った訳です。

百歩譲って、償いや更正への経過により罪の重さに改めて気付いたというものが読み取れるものであればまだ考慮の余地がありましたが、実際に手に取って読んでみて残念ながら一欠けらも見出すことはできませんでした。
本の中にあったのは、ただの幼い自己顕示と自分がいかに苦しんでいるかという自分勝手な文字の羅列でした。
一応書いておくと私は賃りて読みました、印税としてお金は落としたくなかったので。

自伝に限らず、実用書や啓蒙書などはその人の物の捉え方や思想だったり人を現したもので、フィクションと違って間接的な出会いともいえると思ってます。
字は体を表し、人を表し、文章も人格を現します。ですから、ただの文字の羅列ではなく尚更伝わってくるものがあります。

それらを前提として絶歌を読んだ際の感触は、ただただ気持ち悪さと拒絶でした。
事件の際に感じたもの、出版後に自サイトで公開した嫌悪感を抱かざるを得ない絵を見た時のと同種のものです。
はっきりしているのは、彼は事件のことについて反省も無く更正もしていないということで、やはり受け入れることはできません。

厳密に言うと、少年院にも入っておらず形だけの更正医療施設に入っただけですから、元々更正する要素自体が無かったのだと思います。
ですから、更正という言葉は適切ではないかもしれません。

文中に度々文学の一文を引用していましたが、知識のひけらかしにしか感じずとても軽く感じました。
外部治療がないため更正の余地がなかったのなら、後は性格を変える方法、前向きになったり自己を見つめるために読むべきは、やはりそれら関連の本や啓蒙書になります。
私はまだまだですが、そうやって軌道修正して前よりは良化したなという感触はあります。

ですから、おそらく一般の小説をメインに読んでいたがために自己治療という方法が取れなかったのでしょう。
学校に通ってもいないでしょうし、それでは人間としての成長は望めません。

少し話しを逸らしますが、フロイトやユングは人間には最低3つの精神に分かれていると提唱され、それについては未解明ですがそれらを規範として書かれた書は多いです。
端的に自己流で言うなら、1つ目は性格。2つ目は理性や道徳観。3つ目は無意識、潜在意識と呼ばれるものです。
3つ目はちょっと説明が面倒なので省きますが、これを使いこなせる人が世の中でいうリーダーとプレイヤーの差かなとは思ってます。

話しを戻します。
Aの問題は、1つ目の生まれ持った性格だったり性癖の問題ですね。これを車のドライバーに例えると、2番目の精神は助手席に座るナビゲーターのようなものです。
元々運転が荒かったり、人を跳ね飛ばすような異様な運転をする人間であっても、ナビが成長して自分に厳しく根気よく戒めていけば性格って変わっていきます。

この部分を主に育てるには、上述のように自分のためになる本を読み込んで積み上げていき、所謂教養を深めていくしかないです。
残念ながらAの本には薄っぺらい装飾はあっても、それらが感じられず何も学ばず自分を変える努力をしなかったのだなと思いました。

あとは、よく死に瀕するような事柄など価値観が変わるようなことがあり、人が変わるという話しも聞きますが、それも当然なかったのでしょうね。

前置き長くなっちゃいましたが、要するに昔と変わらない大人になった危険人物がもしかしたら隣人や近くにいるかもしれないっていう、潜在的な恐怖を人々に与えたというのは事実でしょう。
特にお子さんのいる親御さんは無関心ではいられないです。
ですから、自己防衛のためにも少なからず知る権利というものが芽生えたというのは否めない事実だと思います。

本を出したり、ブロマガなどで収益を上げようとしたり、そこまでして隠れて知らぬ存ぜぬは通用しませんし、あまり使いたくはないですが有名税って言葉もあります。
世の中そんなに甘くできてないですし、表に出ればマスコミに終われる可能性も覚悟しなければいけないのに危機管理意識が低いとしか言えません。

文春によるとAは半年単位で引越しを繰り返し、昨年神奈川から東京に戻ってきたと言われてます。
それを前提に気になる記事がありました。

http://www.jiji.com/sp/zc?g=soc&k=201510/2015102100309&pa=f


はっきり黒とは言いませんが、東京に戻ったという時期が重なっており、死骸が見つかった場所の一つはAの居住する団地だと言われてます。
実際は判りませんが、個人的にはグレーかなとは思ってます。

このように、関係があるないにしろどうしても猟奇的なことがあると結びついたり連想しちゃうものです。
これもまた一つの過ちの繰り返しだと思いますし、私としてはどうあっても同情の余地はないです。
唯一望むのは、再犯がないよう警察にはしっかりしてほしいなと思うだけです。

最後に印税問題ですが、単価1,620円と一流作家並の強気の価格設定です。
印税率も高めに設定していると思うので10%以上として、出版部数が25万強らしいのでヨミとしては3500~4000万程度かなと踏んでます。
これについては全部Aの懐にと思う人もいるでしょうが、遺族への賠償金が1億以上残っているので本人も「返済にも充てるつもり」とコメントしてるようです。
気になるのは、この”にも”って言葉ですね。この額によって誠意が問われるでしょうね。

あくまで推測なのですが、Aとしては自分の市場価値を過大に考え過ぎ、絶歌がミリオンセラーに達すると踏んでいたのかもしれません。
そうすれば遺族への賠償金を完済しても尚、自分の懐に数千万のお金が残ると皮算用していた可能性もあります。
実際のところ、売上の少なさに不満はあったようなので遠からずかと。

以上、徒然と書きましたが、30歳代を越えると人って地頭が堅くなって成長だったり変わりにくくなるんですよね。
これからAにとっては歳をとるごとに生きづらくなっていくでしょうし、自棄になって再び児童が犠牲にならないことを祈るばかりです。