涼風文庫堂の「文庫おでっせい」450 | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

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私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

<ジュネ、

ドストエフスキー>

 
 

1357「花のノートルダム」

ジャン・ジュネ
長編   堀口大學:訳  新潮文庫
 
 
泥棒で同性愛者だった青年ジュネは、
獄中で書いたこの処女作で
20世紀最大の<怪物>作家となった。
 
自由奔放な創作方法、超絶技巧の比喩を駆使して
都市の最底辺をさまよう犯罪者や同性愛者を徹底的に描写し、
卑劣を崇高に、悪を聖性に変えた、文学史上最も過激な小説。
 
<ウラスジ:光文社古典新訳文庫(中条省平  訳 より)>
 
 
新潮文庫版のジュネには
『黒んぼたち・女中たち』を除いて<ウラスジ>がないので、
光文社古典新訳文庫からお借りしました。
 
まあまあ。
 
ではジュネの初見参ページを。
 
 
う~ん。
やっぱり面倒くさい。
 
とは言え、
本文庫の堀口大學さんのあとがきから。
 
 
ジュネは一九四二年、
フレーヌ刑務所在監中にこれを書いているが、
小説作品の処女作であり、
多くの批評家から最大の傑作と
認められているものなのだ。
 
一読してわかるように『花のノートルダム』は、
作者ジュネの<置き換えられた自伝>小説だ。
主人公のディヴィーヌはもとより、登場人物のほとんど全部に、
作者ジュネの経歴が、心の姿が宿されている。
<中略>
この小説は決してわかりよいようには書いてない。
 
最初、主題の<宿命>は一つかぎりかと思って読んでいると、
エピソードの途中に、また新しいエピソードが割りこんできたり、
未来へつながる物語の本筋と、
過去をふりかえる傍白的なエピソードが、
同一平面に、何の句切りもなく並び、
平行的に語られていたりするのは、ほとんど毎ページだ。
 
               <堀口大學:あとがきより>
 
男娼のデヴィーヌ
情婦のミニョン
少年殺人鬼「花のノートルダム」
 
まだ<BL>なんて言葉がなかった時代。
美少年同士の蠱惑的な性愛を描いた小説や漫画が
そこそこ市民権を得だした頃。
 
気難し屋の友人がこう言ってました。
 
「ジュネでも読んだら、目が醒めるだろうよ」
 
尻と脛毛が絡み合う、おぞましい絵巻、
それが真実の姿だと。
 
<余談>
古典文庫の<ウラスジ>にある 
”超絶技巧の比喩” とか、
堀口大學さんが述べておられる、
本筋とエピソードの割り込みの話とか、
今となっては、
さほど実験的な手法ではなくなったように見えます。
(とは言え、読みにくいことには変わりはないのですが)
 
超絶技巧の比喩っていうと、
ロートレアモンの『マルドロールの歌』(有名なミシン台のアレ)
とか偏愛するラディゲを思い出すし、
切子細工的エピソード風で言うと
ちょっと前にチラと話した『サラゴサ手稿』とか
幾多のラテン文学、
そして古くはフォークナーの十八番であったような気がします。
 
人称の錯綜にしても、
ビュトールという ”二人称” の使い手がいるし、
ロマンそのものを否定するロブ=グリエ、
なんてのもいるし。
 
……とにかく古典新訳文庫の
”あなたの知的センスをくすぐる” 
ような<ウラスジ>が、
視野狭窄気味の文学青年たちを
連綿と作り上げてきたんでしょうな。
 
傾向は違うけど、
ついでにヘンリー・ミラーとかローレンス・ダレルも
薦めてみたら?
 
 
<追記>
ジュネそのものは実存主義作家として、
『フランス文学案内:岩波文庫』に記載されています。
(だからサルトルが必死こいて……)
 
 
 
 

1358「未成年」 (上)

フョードル・ミハイロヴィチ・
ドストエフスキー
長編   工藤精一郎:訳  新潮文庫
 
 
地主と家僕の妻との間に生れた
私生児アルカージイの手記の形をとって、
ロシアの社会的混乱と未来への予兆を描き出した長編。
 
出生に対する屈辱感から
ロスチャイルドになる理想を抱いたアルカージイは、
謎につつまれた父の過去をさぐり、
父を裁く決意を秘めてペテルブルグに行き、
富豪の老公爵の秘書となる。
 
そこで彼は、
老公爵の財産をねらう上流社会の争いにまきこまれる。
 
                        <ウラスジ>
 
 
 

1359「未成年」 (下)

フョードル・ミハイロヴィチ・
ドストエフスキー
長編   工藤精一郎:訳  新潮文庫
 
 
父ヴェルシーロフは
ロシア民族の未来について高度の思想を持っているが、
西欧とロシア、理想と現実との分裂に悩まされ
無為の人にとどまる。
 
そして、
老公爵の娘アフマーコワに対する彼の屈折した情熱は、
アルカージイをもまき込んで
悲劇の大団円へとつき進む。
 
ロシアの混沌とした現代を写し取るために文豪は、
未成年の成長に従って物語の世界を発展させるという
新しい手法をとった。
 
                        <ウラスジ>
 
<ウラスジ>だけを追うと、
まるでディケンズの小説のような……。
 
さて。
 
『未成年』。
ドストエフスキー山脈の一角にはありますが、
いまいち印象に薄い。
 
私の言う<ドストエフスキー山脈>とは、
新潮文庫において二分冊以上の作品を言います。
 
すなわち、
 
『罪と罰』 上下巻
『白痴』 上下巻
『悪霊』 上下巻
『未成年』 上下巻
『カラマーゾフの兄弟』 上中下巻
 
次に、
それぞれの作品内の有名人と、映画化の有無。
 
『罪と罰』 
ラスコーリニコフ 1970年(ソ)レフ・クリジャーノフ監督
 
『白痴』 
ムイシュキン 1951年(日)黒澤明監督
 
『悪霊』 1988年
スタヴローギン (仏)アンジェイ・ワイダ監督 
 
『未成年』 
アルカージイ ……
 
『カラマーゾフの兄弟』 
親父や兄弟を差し置いて、ここはスメルジャコフで。
1958年 (米)リチャード・ブルックス監督
 
『未成年』以外は人物名と映像で記憶に刷り込まれています。
 
アルカージイっていうと、
どうしてもストルガツキー兄弟を思い出しちゃう。
 
では私的変調比較小説考をば。
 
出生の複雑さ、という点では前述したディケンズ。
『大いなる遺産』『オリヴァ・ツイスト』あたり。
(考えてみると、
この二人の書いた物はやたら長いものが多いなあ)
 
若きアルカージイが
実の父を見ながら成長してゆくって過程は、
ドイツの教養小説。
『ウィルヘルム・マイスター』『魔の山』あたり。
 
父親と同じ女性を好きになるってところは、
ツルゲーネフの『はつ恋』。
 
その他もろもろ。
 
ではでは。
これまでの私のドストエフスキー道行をば。
 

 

 

 

 

 

こうやって過去のブログを見てゆくと、

やたら長い文章を書いているのが判ります。

 

……にしてもひねくれてる……。

 

これってコンプレックスの裏返しなんでしょうか。

 

”オレはちゃんと読んでるんだぞう”

って。

 

そのドストエフスキー山脈も、

次の『悪霊』で終わり、

その他の一巻物作品群をいくつか残して、

ひと段落つきます。

 

待ってろ、スタヴローギン。